2006年12月



セルロイドのサンタクロース (占領下の日本製/昭和22〜26年頃)


 日本では最初にサンタクロースが描かれたのは明治31(1898)年のこと。日曜学校の子ども向け教材として「さんたくろう(三太九郎)」(教文館)という読本が発刊されました。その扉絵に描かれた三太九郎は、ロバを従え、右手にクリスマス・ツリー、左手には杖を持っています。どうやらドイツ系の厳格なイメージをもったサンタクロースの影響を受けた絵のようです。やがて大正時代になると、百貨店のクリスマスセールにもサンタクロースは登場するところとなり、多くの日本人が冬の贈り物配達人の存在を知るようになっていきました。
 トナカイのひくソリに乗り、リンリンと錫を鳴らして空をかけるサンタクロースのイメージは、19世紀前半にアメリカ合衆国において形成されたものです。ヨーロッパには、立派な司教、農耕神、仮装劇のMC(司会者)、新年の来訪神など、様々な性格をもったサンタクロース像が見られますが、戦後の日本が民主主義とともに受け入れたのは、アメリカ系のサンタクロースでした。
 写真は、セルロイド製で、ゼンマイを巻くと鈴を鳴らして走り出します。ソリの底には「made in occupied Japan」と明記され、これが、昭和22から26(1947〜1951)年頃の占領下の日本において作られたものだとわかります。
 この時代、形も色調もアメリカ人好みにデザインされた玩具が人件費の安い日本の民間工場で生産され、本国のアメリカへ輸出されていました。けれども、アメリカの子ども達のために作られたサンタクロースのうち、いくらかは日本の子どもの手元にも届き、混乱した戦後の冬に温かい灯を点したことでしょう。
 私たち日本人とサンタクロースとのかかわりは早、一世紀を超え、「異国のものまね」と一笑できない歴史を、既に、刻んでいるのです。


     
2006年11月



アドベントカレンダー(デンマーク/1980年代)


 収穫感謝祭が終わると、デンマークの町々もクリスマスを迎える準備が始まります。街中にクリスマスツリーが立ち、家々の窓辺には、暖かいキャンドルの下、麦わらのヤギや妖精(ニッセ)、アンデルセン童話の主人公、それにキリスト降誕の風景を表わす箱庭などが飾られます。
 このようにクリスマスを待つ時節は、アドベント(待降節)と呼ばれています。
 12月1日、デンマークの子ども達の部屋には「アドベント・カレンダー」という日めくりが飾られます。クリスマスの風景などが楽しく愛らしく描かれ、「飛び出す絵本」のような仕組みになっているものもあります。よく見ると、絵の中には、切り込みの入った窓がもうけられ、そこに1から24までの数字が書かれていることに気付きます。子ども達は、毎朝、その日と同じ数字の窓を探して開けていきます。窓の中からは、キャンドル、天使、お菓子、小鳥など、わくわくするような絵が出てくるのです。
 「もういくつ寝ると、クリスマス?」 24すべての窓が開いた日がクリスマスイヴです。イヴの絵は、ほとんどの場合、キリストが馬小屋で誕生する場面になっています。太陽の光が見えなくなる暗い季節、アドベント・カレンダーは、子ども達の心に、待つことの喜びと未来への希望を育みます。
 当館で現在開催中の特別展『世界クリスマス紀行』では、アドベント・カレンダーのコーナーをもうけ、デンマークをはじめ、ドイツ、スウェーデン、アメリカ合衆国などのアドベント・カレンダーをご紹介しています。

2006年10月



小さなマーケットの風景(スロバキア/1990年代)


ヨーロッパの町々では、特別な日ではなくても、市庁舎のある広場などに大がかりなマーケット(市)が立ちます。現在開催中の企画展『ミニチュアおもちゃの世界』会場には、スロバキアの首都・ブラチスラバからやってきたマーケットが来館者の目を引いています。食品や食器などを売る小さな屋台には、実物と同じ素材で精巧に作られた品々が並び、清楚な衣装をまとった人形が指先ほどの品物を商っています。

 写真は、パンを売る高さ14cmの屋台で、「ウルブ」と呼ばれる民間芸術センターでデザインされました。伝統的な暮らし方や地域性が急速に失われていくスロバキアの今の暮らしに鑑み、ウルブは、玩具の中に、季節の風俗や農村の伝統的な生活などを正確に表現しようと取り組んでいます。

 ブラチスラバの朝、パンを売る屋台には、丸い黒パンや三日月形の白パンなどが並べられ、ハート型のパンや「め」の字の形をしたプレッツェルというパンがぶらさがっています。プレッツェルは、小麦粉と塩と水だけで焼く素朴な味わいのパンで、クリスマスのから春にかけての「冬送りの祭」には欠かせない食べ物でした。中世ヨーロッパでは、プレッツェルが<死者の腕輪>を表わしたそうで、今でも地域によっては、子どもたちが長い棒にプレッツェルをたくさん通して行進し、死者とともに「冬」を彼岸へ送り、生命が芽生える「春」を喜び迎える祭が残されています。

 小さなマーケットの風景には、食べ物にまつわるそうした伝承もまた、保存されていくのでしょう。

2006年9月



セヌフォ族のカラオ鳥(コートジボアール/1970年代)

 アフリカ西部、ギニア湾に面した小国・コートジボアールに居住するセヌフォの人々は、子どもが生まれると、「カラオ」と呼ばれる木彫の鳥を作らせてお守りとします。
 カラオは、アフリカ各地に生息する「サイチョウ」を表現しています。西アフリカには十数種類のサイチョウが生息しますが、この地域では、創造神が最初につくった鳥と信じられてきました。サイチョウは、15日間で40個の卵を産む多産の鳥、クチバシが大きく、羽根の色は種類によって様々ですが、威風堂々とした風格のある鳥です。 
 セヌフォ族がつくるカラオは、たっぷりとふくらんだ腹部と長いクチバシが特徴的で、大きなものは高さが150cmを越えるものもあります。一般に、豊満な腹部は女性を意味し、クチバシは男根を象徴していると言われています。元来、子どもをたくさん授かり、村が繁栄するようにという願いが込められた造形でもありました。
 写真は、高さ20cmほどですが、前後左右どこから見ても、生命感あふれる面白い小像です。現在6号館で開催中の「世界の鳥の造形」のアフリカのコーナーでご紹介しています。

2006年8月



ついばむ孔雀(インド/2000年代)

 孔雀はインドや中国、またコンゴ、タンザニアなどアフリカを中心に生息し、聖なる鳥として信仰を受けてきました。特に、インドクジャクは、毒蛇をも一撃のもとに食してしまうほど勇猛であることから、また、羽根模様の中に数多くの「目」を持つことから、人々は、邪悪なものを退ける霊鳥と見なして大切にしてきたそうです。
 そんな理由で親しまれる孔雀は、玩具の題材としてもインドでは非常に人気があります。写真でご紹介する玩具は、台を持って、桃色のオモリを前後に揺らすと、孔雀の首と尾が交互に動きます。尾をふりつつ、餌をついばむその仕草は意外にも力強く、インドの人々が孔雀を優美な鳥というより、むしろ果敢な鳥と捉えていることがよくわかります。
 紺色のボディーに白とオレンジの羽根、緑の尾に黄色の冠とクチバシ。福をまねくという五色で彩色された美しくも縁起のよい孔雀です。


2006年7月



百連発ピストル/昭和20〜30年代/日本


 昭和20〜30年代男の子に人気があった連発式のブリキ製ピストルです。細いテープ状の赤紙に丸い火薬が付いた径約2cmの巻玉をピストルに装着して引き金を引くと、自動的に火薬が送られ、小さなハンマーが一発ずつ火薬をうち「パン」と炸裂音が響きます。男の子はこの小さなピストルを手に握りしめ、西部劇の真似事をして「パンパン」撃ちならしながら路地裏を走り回って遊びました。
 このピストルは意外と古い歴史を持ち、大正時代に大阪の玩具業者がドイツ製品をモデルに作ったのです。国内だけでなく海外にも盛んに輸出されましたが、戦火が激しくなると製造は中止になりました。戦争が終決し、昭和23年に紙火薬の製造販売が許可されると再び百連発ピストルの製造が始まりました。子供たちに受け入れられてブームが到来、特に昭和30年代は西部劇ブームの影響で売れ行きが急増し最盛期には百連発ピストルの製造業者が35軒もあったと記され、大阪製玩具の代表的商品でした。
 昭和36年に玉が飛び出す銀玉ピストルが生産されると、それに子供たちの人気が移り、百連発ピストルは急速に姿を消しました。
 この作品は現在開催中の「おもちゃで綴る昭和」で紹介しています。

2006年6月



パガン張り子のフクロウ(ミャンマー/1980年代)

 ミャンマーの古都・パガンは、イワラジ川中流、首都ヤンゴンから北北西約500qに位置しています。11世紀にミャンマー(ビルマ)を統一したパガン王朝が、この町に都をおきました。パガン王朝のもとでは、上座部仏教が盛んに信仰され、パゴダと呼ばれる仏塔が5000基以上も建立されました。現在も広い平野に乱立するパゴダ群を訪れる人々があとを絶ちません。
 中でも「アーナンダ寺院」は、ミャンマーをはじめアジア中から信仰を集める、壮麗な大寺院で、その参道筋には、張り子玩具を商う小さな店がいくつかあります。間口一間ほどの店には、黄金色のフクロウやカラフルに色づけされた象、水牛、シマウマ、キリンなどがぎっしりと詰め込まれ、参詣客がそれらを道端にずらりと並べて、お気に入りの品を選んでいる姿が見られます。
 中国、インド、タイなど他のアジアの国々にも数多く張り子玩具が伝わっていますが、ミャンマーのものは特に製法が日本とよく似ています。木型に紙を張り付けて乾かし、背中を割って型を取り出します。その後、割った部分を張り合わせ、白で下塗りをしてから彩色したり、色紙などを全体に張りつけて完成させます。中には、土球を入れて「首ふり」に仕上げる作品も見られます。ミャンマーの張り子の産地は、パガンの他、首都ヤンゴンやマンダレーにもありますが、「第二次世界大戦中、ミャンマーの駐留兵に張り子師が居て、日本の木型と製法を伝えた」という話も各地で聞かれるところです。
 さて、写真は、1980年代に当館が収集した黄金色のフクロウで、様々な大きさのものが作られています(大きい方が高さ約25cm)。ミャンマーにおいてフクロウは、夜も眼をランランと輝かせて、外敵や悪霊を追い払ってくれると信じられる鳥です。人々はこれを土産に持ち帰って戸口などに飾り、福を呼び寄せるのだと聞きました。細部にこだわらない大らかな造形からは、仏教国らしい穏やかさが漂ってきます。
 この作品は、6月24日から開催する夏の特別展『世界の鳥の造形』でご紹介致します。

2006年5月



端午の掛け軸飾り(明治末〜大正時代)


 鯉のぼりが五月の空を泳ぎ始めたのは、今から二百数十年前、江戸時代中ごろのこと。

 
中国の有名な故事「龍門伝説」は、すでに江戸の町人にもよく知られ、急流をさかのぼって狭き門をくぐり、立派な龍へと変身する鯉は、立身出世のシンボルと考えられていました。竹バネを利用した「鯉の滝のぼり」という名のカラクリ玩具が江戸っ子たちの人気を集めていたほどです。
 江戸時代に生まれたばかりの鯉のぼりは、黒一匹だけで、50pほどの紙製でした。端午の節句が男児の幸福を願う行事として盛んに祝われるようになるにつれ、鯉はどんどん大型化し、昭和に入って布製が普及する頃には、真鯉に緋鯉、さらに子鯉……と、家族が増えていきます。
 写真は、明治時代末期から大正時代にかけて飾られた端午の掛け軸です。甲冑(かちゅう)飾りや武者人形などとは異なり、場所をとらず、比較的安価なこともあって、庶民の間で人気を呼びますが、昭和も戦後になると、徐々に姿を消していきました。
 画面中央には、白馬に乗った太閤秀吉と加藤清正が勇ましく、下段の兜(かぶと)飾りや菖蒲太刀(しょうぶたち)、具足や軍配などが祝儀の華やかさを伝えています。そして、上段には、富士山を背景に幟がはためく五月の空に、一匹の真鯉が薫風を受けて尾を跳ね上げています。


     
2006年4月



唐子袋(幕末〜明治時代)


 幕末から明治時代にかけてのちりめん細工には、「唐子」あるいは「唐人」と呼ばれる作品が目につきます。これらは、襟や袖にフリルの付いた異国風の衣装を身にまとい、時にはつば広の帽子をかぶっていることもあります。
 ちりめん細工が誕生した江戸時代、「唐(から)」は朝鮮半島も含めた大陸の呼称で、唐子、唐人とは大陸の人を表わしたのです。丸々と太った中国の子どもたちが果物や玩具を抱いて楽しげに遊ぶ図像は、豊かさの象徴として古くから愛されてきましたが、朝鮮半島の風俗もまた、日本の絵画や工芸に大きな影響を与えたといわれています。
 徳川幕府と朝鮮半島の李朝は、12回に及ぶ通信使節を送り交わしています。李朝からは王の文書を携えた外交官が、儒学者、僧侶、文人や楽人を従え、1回平均500名の一団を組んで来日しました。福岡から瀬戸内海を経て江戸へと向かう使節のもとには、好奇心に目を輝かせた人々が毎日のようにつめかけたといいます。異国の洗練された文化に魅せられた人々の間で李朝風俗を表わす造形が流行し、やがては庶民のものである京人形や郷土玩具の題材の中にも、そうしたモチーフが取り込まれ、人気を博するようになるのです。
 ちりめん細工に登場する唐子は、朝鮮半島と中国の意匠が溶け合い、異国趣味が強調されています。写真は、手に風車や芭蕉形の扇を持った高さ12cm前後の人形で、明治前期頃に作られたもの。全体が小袋に仕立てられており、季節に合わせて香などをしのばせたものと思われます。現在1号館で開催中の「ちりめん細工の美」において展示しています。

2006年3月



雛のさげもん(福岡県柳川市・昭和30年頃)

 雛祭りに雛段の周りに飾る、吊るし飾りが人気です。輪から下げた糸にちりめん細工や糸鞠などを吊るして飾るのですが、伊豆の稲取では「つるし飾り」、福岡の柳川では「さげもん」と呼ばれています。雛めぐりが流行する中で両地ともに脚光を浴び、大勢の観光客でにぎわっています。しかし両地とも10年ほど前までは吊るし飾りは忘れられた存在でした。それが人気を呼んだのは、和ものやちりめん細工ブームの影響と、吊るし飾りの持つ華やかさを町おこしに結び付けたのが成功したのでしょう。
 一昨年の春、当館スタッフは雛祭りシーズンに柳川を訪ねました。水郷の町は豪華で美しいさげもんで埋め尽くされ、街は見物の人々で賑わっていました。しかし最近の作品ばかりが目立ち、古いさげもんと出会うことは稀でした。当館所蔵の柳川のさげもんは昭和61年に同地を訪れた際に、水郷沿いの加藤飴屋の明治生まれの老婦人に作っていただいた作品と同地出身で神戸在住の方から寄贈いただいた今から50年前の昭和30年頃の作品です。50年前の作品は、ちりめん細工、折り紙、麦わらの傘などを吊るし、作品の間の糸には麦わらを通した素朴なものです。同地方のつるし飾りを考えるうえでは貴重な資料と考えられます。4月11日まで5号館で展示しています。
 

2006年2月



雛の勝手道具(京阪地方/明治末〜大正時代)


 雛人形に添え飾る道具類といえば、大名道具を小さくしたような黒漆塗金蒔絵の伝統的な調度を思い浮かべますが、京阪地方の町家では、江戸時代の終わり頃から、普段の庶民的な暮らしの道具をそのまま小さく作った諸道具が飾られていました。
 江戸時代後期、嘉永6(1853)年に喜田川守貞が著した『守貞漫稿』には、江戸と京阪の雛飾りについて、興味深いことが記されています。「京阪の雛遊び・・・(中略)・・・・・調度の類は箪笥(たんす)、長持(ながもち)、多くは庖厨(=台所)の諸具を小さく模し、江戸より粗で野卑に似たりといえども、児に倹を教え、家事を慣わしむるの意に叶えり・・・・・」 江戸時代後期、京阪地方では身近な台所道具が雛飾りに用いられ、女児の家庭教育の糧としての位置づけをもっていたと考えられます。
 写真は、明治末期の雛の勝手(=台所)道具です。神棚のある勝手、車井戸、くど(=かまど)などが当時そのままの姿で小さく作られ、その中には味噌樽(みそだる)、醤油樽(しょうゆだる)、鰹節削り器(かつおぶしけずりき)、焙烙(ほうろく)、七輪、きぬた、石臼・・・・・・ネズミ捕り器までセットされています。少女たちは、小さなまな板の上でトントン野菜を刻んだり、客人にお茶を入れたり、小さな箒で庭掃除をしたりして空想の翼を広げました。それは、とりもなおさず、将来、家庭の良き主婦になるための勉強だったのでしょう。こうして、雛の勝手道具は、高度経済成長が始まる昭和30年代半ば頃まで、京阪から関西一帯の家庭の雛飾りを賑やかに彩り、節句のままごと道具として女児たちに親しまれ続けました。
 今春の特別展『雛と雛道具』では、明治時代から昭和20年代までの「雛の勝手道具」を多数ご紹介しています。

2006年1月



琉球張り子・イヌグヮー(沖縄県那覇市/大正末〜昭和初期製)


 1号館の企画展『犬のおもちゃ』では、日本各地の犬の郷土玩具を数多く展示していますが、その中で琉球張り子の犬「イヌグヮー」は、独特の雰囲気で来館者の注目を集めています。ツンと斜め上方を見つめる犬の姿にはどことなく気品が漂い、黄色地に黒、赤、白、緑で描かれた繊細な文様には、琉球らしい美意識が感じられます。
 戦前の沖縄では、旧暦5月4日が子どもの節句で、その前後数日間には盛大な玩具の市が立ったそうです。市には、ハーリー船競技に登場する船を真似た玩具、起き上がり小法師や人形、動物の張り子玩具などをぎっしり並べた露店がひしめき、子ども達にとっては夢のような世界だったそうです。その玩具のほとんどは魔除け、厄除けなどの意味を持ち、子どもの健やかな成長を願うものでした。
 このイヌグヮーも、節句の市で売られたものと思われますが、戦前の琉球張り子は、戦場となった沖縄にはほとんど残されておらず、とても貴重な資料です。大正末期の玩具収集家、故・尾崎清次氏から寄贈を受けたコレクションの中に含まれていたもので、同氏の著書『琉球玩具図譜』(昭和11年/笠原小児保健研究所発行)の中にも紹介されている作品です。

  2004年度  2005年度  2007年度  2008年度  2009年度  2010年度  2011年  新着情報に戻る









Mail:info@japan-toy-museum.org


〒679-2143
兵庫県姫路市香寺町中仁野671−3

TEL: 079-232-4388
FAX: 079-232-7174