2008年12月



ヒンメリ<フィンランド/2000年代>


 ヒンメリは1150年頃にフィンランド田園地方からはじまった伝統的なヨウル(十二月下旬の冬至に行う太陽神の誕生祭や農耕神への収穫祭のこと)の装飾品で、名もなき民衆が作り出しました。本来、正八面体に編んだモビールのことを指すヒンメリは、主にライ麦の藁で作られています。収穫したばかりの新しい藁には、穀物の精霊が宿り、幸せを呼ぶ力があると信じられていました。
 また、ヨウルは死者の霊を鎮めるお祭りでもあったため、闇をさまよう霊から家を守るための意味合いもありました。
 中世、キリスト教の伝播とともに、ヒンメリはクリスマス飾りとして意味をもつようになりますが、近世になるとドイツからスウェーデン経由でクリスマスツリーが入ってきて流行し、その姿は消えかかりました。しかし、女性団体や出版社がヒンメリを広めようと努め、その後、アーティスト達によって形は多様化していきました。
 画像は、正八面体モビールではありませんが、ライ麦の藁で手づくりされた星のモビールです。モビールがゆれると、13個の星が静かに回転し、すがすがしい風の訪れを感じさせてくれます。
 ヒンメリの資料は現在開催中の「世界のクリスマスマーケット」で展示されています。


  ヒンメリに関する学芸室のページへ

2008年11月



カチナ人形 <アメリカ合衆国アリゾナ州/1980〜90年代>


 ホピ族は、アメリカ合衆国アリゾナ州の非常に雨の少ない乾いた土地に暮らしています。厳しい自然環境と調和して生きていくため、彼らの間には、独得の精霊信仰が生まれました。精霊は「カチナ」と呼ばれ、この世のすべてのものに宿り、雨乞いの祈りを天に届けてくれると言われています。カチナの数は数百とも言われますが、限られた範囲での信仰であるため、謎が多く、すべてのことが明らかにされているわけではありません。
 自然の中にある様々な精霊を表わすカチナは、毎年冬から夏にかけてホピ族の居住地にやってきます。人々はカチナを迎えて、様々な儀式をとり行います。男たちは仮面や特別の衣装をつけてカチナの姿を装い、踊り祈ります。儀式を通して、カチナの魂が男たちにのり移り、雲をよび、雨をよぶと信じられているのです。
 そんな儀式を終えるとホピ族の男たちは、娘や孫に、精霊カチナの姿を彫った人形を贈りました。これがカチナ人形の始まりと言われています。子どもたちはこのカチナ人形を通し、ホピ族の自然観や信仰を学んでいきました。
 カチナ人形が販売されるようになったのは、1880年頃と言われています。初期の頃は静的なイメージであったものが、徐々に躍動的な雰囲気を持つものへと発展し、現在の作品は、台座がつくなどして工芸化しています。
 カチナ人形は、現在1号館で開催中の企画展『世界の仮面とまつりの玩具』でご紹介しています。

2008年10月



ジャガンナート三兄弟の仮面 <インド・オリッサ州プリー/1970年代>


 住民の大多数がヒンズー教に属すインド。いずれの地域の人々も土着の神々をはじめ、祖霊や穀霊、地霊などを信仰し続けてきました。
 12世紀の中頃、オリッサ州プリーに壮大な石造の寺院が建てられました。木造の本尊はジャガンナート神で兄バララーマと妹スバドラーの三体が祀られ、プリーの町は巡礼に訪れる一大聖地となりました。
 雨季のさなか、ジェーシュタ月(太陽暦の5月から6月にあたる)の満月の日にジャガンナートなど三体の神像は、本殿から運び出され、沐浴の儀式を受けます。その15日後(アーシャーダ月の新月の日の翌日)、山車巡行祭が始まります。毎年新たに作りかえられる木製の三台の山車は13mほどもあります。子どもたちも高さ30〜40pの小さな山車を作り、ひきまわして遊びます。
 ところで、写真の張子面はジャガンナート大祭の日に露店で売られているものです。クリシュナ三兄弟の仮面の中で、ジャガンナート(左)は、宇宙を支配するクリシュナ神の黒髪から生まれ、兄バララーマ(右)は、白髪から生まれたといわれています。ジャガンナートの妹スバドラーは中央に位置し、三仮面は常にこの順に並べられます。
 仮面をかぶることで、人は神や英雄になってみるという変身願望をもっています。インドの子どもたちは、神々とあそぶことによって、神に近づき、玩具を通してそのかたちの意味や神格に親しみます。そして、子どもなりのやり方でこの祭りに参加し、神と人との関係を学びとっていきます。
 この仮面は、現在1号館で開催中の『世界の仮面とまつりの玩具』展でご紹介しています。

2008年9月



鳴くコオロギ <中国東北部/1920〜30年代>


 キリキリキリ・・・キリキリキリ・・・キリキリキリキリ・・・・・・♪
小さなコオロギをのせた紅い蕪から出ているコウリャン片を持って、細かく左右に動かすと、虫たちが羽根をこすり合わせるような音が響きます。
 コウリャンの太い茎の表面を薄く切り出して細い弦とし、その弦と交差させるように別のコウリャン片を差し込んで楊枝で止めると、そこに松脂をつけます。キリキリと鳴くコオロギの音は、松脂をつけた部分がこすれる音なのです。
 当館所蔵の「鳴くコオロギ」は、大正時代から昭和初期に郷土玩具の収集研究者として活躍された故・尾崎清次氏のコレクションの中に含まれていたもので、かつて、これらを当館と交流のある中国民間玩具研究家・李寸松老師に見ていただいたことがありました。李老師は、「中国の東北部で多く栽培されるコウリャンを使った民間玩具(郷土玩具)だったが、現在はもう作られてはいないのでとても貴重だ」とお話し下さいました。「コオロギの音色に耳を傾け、静かに時を過ごした古き良き時代の秋が懐かしい」とも。
 中国大陸における虫の音色を愛する文化の一端を物語る卓抜したアイディアの玩具です。現在6号館で開催中の『音とあそぶ』展の「こする発音玩具」のコーナーでご紹介しています。

2008年8月



夢の超特急 <日本/昭和34〜39(1959〜1964)年>


 昭和30年代中頃から後半にかけて、「弾丸鉄道」「夢の超特急」「Dream Super Express」
「超特急・いなづま号」などの名前でたくさんの鉄道玩具が製作されました。これらの姿は、新幹線(0系)とよく似ているようで、どこか違っているようです。
 技術的な裏付けのもと、広軌道の超特急(のちの新幹線)建設計画が承認されたのは昭和33(1958)年、翌34(1959)年4月には起工式が行われました。昭和36(1961)年、当時の国鉄は、3年後には完成させばければならないという厳しい条件つきで世界銀行から8,000万ドルの融資を受け、目標どおり、昭和39(1964)年10月1日、東京オリンピックの開会に合わせて、東海道新幹線を開業したのでした。
 戦前、満州への大量物資輸送のために、広軌道を走る「弾丸列車計画」があり、実現に向けて、土地買収やトンネル開削などなされていました。新幹線建設は、戦前戦中の弾丸鉄道計画をうまく活用するカタチで進められたために、5年という短期間での完成が可能となったといわれています。
 皇太子ご成婚、東京オリンピック開催・・・。日本経済が発展し、社会の近代化が進む時代、世界に向けて日本の技術力をアピールした時代、技術革新が家庭生活を変えていった時代、新幹線は、この時代を生きた人々の夢を担って、明るい未来へと走る「夢の超特急」だったのでしょう。
 「新幹線」という名前が決まり、その姿形が公表されるまでの間、玩具メーカーは、東京・大阪間を約3時間で走り抜けるという新しい特急列車を夢想しながら玩具として売り出しました。これらプレ・新幹線の玩具は、すべて、ゼンマイ仕掛けではなく、当時流行のフリクションによって走ります。タイヤを床面に何度か強くこすりつけるように回転させたあと手を離すと、勢いよく走り出す仕掛けです。夢の超特急の玩具には、フリクションによる走行こそがふさわしいと考えられたのです。
 このように、玩具は、新しいものに敏感かつ忠実で、小さいながらに、時代の夢を表現した形だと思います。ブリキ製のプレ新幹線たちは、1号館で開催中の夏の企画展『おもちゃの汽車』でご紹介しています。


2008年7月



ラトルウォッチ (左からドイツ・スロバキア・フランス/1980〜90年代)


 ラトルウォッチ(がらがら時計)あるいはラトルトラップと呼ばれる鳴り物は、ヨーロッパ社会で古くから使用されてきました。歯車が一つあるいは複数作られ、持ち柄を手にとって、ぐるぐる回すと、薄い木の弁が歯車に当たってギリギリ、ガリガリ、けっこう大きな音を立てます。けっして、美しい音ではなく騒音という部類に入る雑音性に満ちた音色です。
 一世紀前の子どもたちは、これを振りまわし、大きな音を立てては鳥を追っていましたし、復活祭には、鳴らされない教会の鐘に代わって、子どもたちが振りまわすラトルウォッチの音が時計として時刻を知らせていました。
 さらに古い時代、中世から近世にかけて、ラトルウォッチは、夜の見張り番である夜警の持ち物でした。夜の街路を歩きながら音を立て、自分たちが見張りをしていることを町の人々に知らせていました。「安心してお休みなさい」と。もし、事件が起こったら、これを振りまわして大きな音を立て、警報を発するというわけです。ギリギリ……とやかましく鳴り響くラトルウォッチの音には、目に見えない悪霊を追い払う意味が込められていたのかもしれません。
 ヨーロッパだけではなく、これと同じ仕掛けを持った鳴り物は中南米やアジアでも作られています。中南米の国々では、これがカーニバルに登場します。メキシコでは「マトラカ」と呼ばれるこの鳴り物を手に手に、人々はカーニバルの賑やかな雰囲気を盛り上げていくのです。
 これらの玩具は、6号館で開催中の「音とあそぶ」展でご紹介しています。

2008年6月



マトリョーシカの入れ子人形(ロシア/1970〜80年代) 


 プラトークをまとい、花模様の衣装をつけた黒い瞳の人形、その胴部を開けると、中から第二、第三の人形が現れ、身長の順に5個、10個……と並んだ姿が何とも印象的です。入れ子になったこの人形は、ロシア農村部で広く親しまれた女の子の愛称をもとに「マトリョーシカ」と呼ばれています。最近、このマトリョーシカをデザインした生活雑貨が大変人気で、街角でもよく見かけるようになりました。
 旧ソ連時代、観光土産として世界中に羽ばたき、その愛くるしい表情でソビエトの親善大使ともなったマトリョーシカが、実は、日本と深いつながりがあることを知っている人は案外少ないのではないでしょうか。
 19世紀末、モスクワ郊外に住む美術工芸の保護者、マモントワ夫人は、日本土産の箱根の七福神の入れ子を手にし、その面白さに惹かれました。同じようなものをロシアでも作れないだろうか……、マモントワ夫人は、入れ子人形にロシア人の誠実さ、信仰深さなどを表現したいと、木製玩具生産の中心地、ザゴルスク(現在のセルギエフパサド)の木地師に形を、画家のマリューチンに上絵を依頼。民族性を象徴するような人形を誕生させたのです。
 箱根や小田原の木地師が作る木製玩具は、江戸時代中頃から種類の多さと細工の精緻さで知られていましたが、明治時代に入り、それらが世界に輸出され始めるや、各国の木工芸に影響を与えたと言われています。
 マトリョーシカは、ロシアと日本との知られざる民間交流の証ともいえる人形です。写真は、旧ソ連時代にザゴルスクで作られた素朴な作品ですが、常設展示館4号館2階、ロシアの民芸玩具コーナーでは、セミョーノフやキーロフなど、色々な産地で作られた旧ソ連時代のマトリョーシカを展示しています。

2008年5月



端午の張り子虎(大阪製/明治末期)


 中国において端午の節句といえば、春節(旧暦の正月)に次ぐ大きなお祭りです。その昔はどこの家でも宝剣をかたどったショウブやヨモギを戸口に飾り、薬草で室内をいぶして疫病神の退散を願いました。またこの日には、粽を食べる習慣などもあって、日本の端午の節句の行事が中国から伝えられたことをよく示しています。
 かつて端午がめぐってくると、中国の子どもたちは、虎の顔があしらわれた帽子に沓(くつ)、虎模様の上着を身にまとい、額には虎を表わす「王」の字を書いてもらいました。首からは厄除けになる虎の香包をぶら下げ、夜には虎形の枕で眠ります。まさに虎づくし!
 中国では「端午の虎、五毒をふみつける」という言葉がよく知られています。五毒とは、ムカデ、サソリ、蜘蛛、ガマ、蛇のことで、強い精力をもった恐るべき生き物を意味します。それらを平然と踏みしめる虎は、魔を追い払う霊獣というわけでしょう。
 日本の節句飾りに、古くから張り子の虎が添えられるのは、このような中国の習俗に影響を受けたものでした。子どもたちが虎のもつ霊力にあやかり、強く健やかに育ってほしいという人々の願いが込められたのです。
 写真は、現在開催中の特別展『端午の節句飾り』に展示中の張り子虎です。明治末期の大阪製でしょうか。身を低くして腰をあげ、四方八方を睥睨する百獣の王の眼には、硝子が使用され、生き生きとした生命感にあふれています。

2008年4月



花形独楽(明治初期/平成初期復元)


 江戸時代後期、安永2(1773)年に出版された玩具絵本『江都二色』(北尾重政画・大田南畝狂歌)には、当時、江戸の町で流行していた手遊び(玩具)の数々が描かれています。ある頁には、立雛や裸人形(抱き人形)とともに、花形の独楽が見えます。狂歌には、「雛は紙 小蔵(僧)ははだか 独楽はきれ おもひおもひの すがたおかしき」とあり、独楽が裂(きれ=布片)で作られていることがわかります。
 画像の上部にある紅白の梅花をかたどった独楽は明治初期製です。和紙を何枚も重ねて花びらを作り、そこに縮緬を貼って平金紙で模様をつけたもの。中央に挿した細い竹軸をそっとひねると、直径2cm余の梅花がくるくる可憐に回転します。『江都二色』の花形独楽とは軸の付け方が異なっていますが、近世の薫りを伝える作品です。
 梅花だけではなく、かつては桜や桃、桔梗、菊など様々な花の独楽が作られていたことは、『うなゐの友』の第四篇(清水晴風著・明治41年刊)に描かれた花形独楽のバリエーションからもわかります。『うなゐの友・全10篇』は、江戸時代後半から明治時代にかけて収集された玩具の色々が描かれた絵本です。画像の左側の4点は、こうした文献や実物資料を参考に復元制作した縮緬貼りの花形独楽です。紅白の梅花、山桜、八重桜・・・。軸をひねると、いずれの花も春風に舞い踊るかのように楽しげに回転し、雅な風情が漂います。
 これらは、現在1号館で開催中の企画展『ちりめん細工とびん細工』に展示中です。

2008年3月



掛け軸雛(明治末期) 


 関西地方には、描かれた雛人形を掛け軸に仕立てて床に飾る「掛け軸雛」を伝える家々が数多くあります。江戸時代終わり頃から京阪をはじめ、各地で製作され、明治・大正時代には様々な様式の掛け軸雛が作られました。桃の節句当日の様子を描いたもの、御殿飾りや段飾りの雛人形をそのまま描いたもの、雛人形だけ押絵で作られたもの…など、場所もとらず、安価なことから、戦争色が濃くなる昭和初期の頃には、関西地方の町家だけではなく、西日本一帯の農村部などでも人気を博しました。
 写真は、地元播州から寄贈いただいたもので、明治末期の作と思われます。木版で輪郭をその上を岩絵の具で彩色した量産版で、周辺の博物館の所蔵品などに、同じ図案の掛け軸飾りを見かけることがあります。縦90cm×横79cmの画面は、掛け軸雛にしては比較的大きいものといえます。
 満開の桜に、黄色い実をつけた橘が美しい御殿の庭では、鳥兜をかぶった雅楽隊の五人囃子が楽を奏し、胡蝶の舞がまさに舞われている最中です。御殿の中には、古今雛の様式に似せた衣装の内裏雛、三人官女が三方、島台、長柄杓を持って、廊下を渡っていきます。階の下には、左右の大臣(随身)、三人の仕丁たちは、仕事を放り出して桃花酒を酌み交わしています。節句の日の華やいだ空気が感じられる楽しい図柄です。
 宮中で行われる桃の節句(上巳)の有り様を想像して描かれた掛け軸雛、関西地方製のそれらは、やはり同じ時期に同じ地域で人気のあった「御殿飾り雛」の世界に通じる賑やかさと雅やかさをもっています。素朴ながらに・・・。

2008年2月



京阪神の御殿飾り雛(大正12年製)


 京都では、内裏雛を飾る館のことを御殿といい、その中に一対の雛を置く形式を「御殿飾り」と呼びました。京阪を中心に、この様式の雛飾りが登場するのは江戸時代末期のことです。御殿飾り雛は、 大正から昭和時代初期にかけて、御殿飾りは京阪地域の都市部を中心にさらに広がりをみせ、簡素で軽快な印象のある板葺きの御殿が数多く作られました。
 写真は、昨年、神戸市東灘区にお住まいの方から寄贈を受けた大正12年製の御殿飾り雛一式です。 御殿の高さは約70cm、幅は115cm。本殿と両側に脇殿を持った作りで、御殿の部品をすべて納めておく木箱には「宝閣殿」とその名が示され、「白木極上三寸、屋根付両廊下」と明記されています。さらに箱の中には、「Takashimaya Osaka Nanba(高島屋 大阪難波)」とこの御殿飾りをプロデュースした百貨店名がありました。
 日本玩具博物館は、この資料をふくめ、同じ御殿飾り雛を3点所蔵しています。巻き上げた御簾から下がる房飾りの色などが違う程度で、セットされている人形も道具も共通しており、いずれも、大正12〜14年にかけて、大阪の百貨店で購入されています。また、同じ作りで、向かって右側にのみ脇殿をもつ大正末期の御殿飾りを5点所蔵していますが、人形たちの作り方、諸道具のセット内容などが、この写真の資料とも非常によく似ていて、同じプロデューサーの「商品」ではないかと思われます。
 明治時代流行の大型御殿飾り雛は、男性の手を借りなければ飾ることが難しい大きさと重量を持ち、雛飾りのために、10畳ほどの座敷が必要となってしまいます。対して、細やかなパーツをコンパクトに収納でき、比較的軽量な大正時代の御殿は、女性たちの手で充分に建てられるし、床の間などに飾ることも可能です。大正時代、徐々に人口が集中していく都市の住宅で歓迎されたものに違いありません。

2008年1月



酒田土人形・ねずみのり大黒(山形県酒田市/明治中〜末期) 


 大黒天は、農耕を司り、実りをもたらす神として篤い信仰を受け、豊漁を司る恵比寿と並んで古くから日本庶民に敬愛されてきました。大黒天の出身はインド。マハー(大きいの意)カーラ(暗黒の意)という名の勇ましい姿の武神、あるいは財宝の守り神が、いくつかの変転と伝播を経て、日本では満面笑顔の福の神となりました。
 大黒天の使いとして知られるのがねずみです。この写真の土人形は、大きな白ねずみに乗った大黒が小槌を打ち振り、微笑んでいます。江戸時代、安永2(1773)年に発刊された『江都二色』という、当時、江戸で人気のあった手遊びを集めた本にも、大きなねずみに乗った大黒の人形が掲載されており、近世社会では、庶民が親しんでいたデザインのひとつと考えられます。
 大黒とねずみを組み合わせる理由としては、米を食べるねずみを農耕神である大黒が監視しているという説、多産で増大するイメージを持つねずみを、作物が増える、つまり実りが豊かであることと結びつけて、農作の神様の使いとしたという説、大黒の名が象徴する「黒」が方角でいえば北、ねずみ(=子)もまた北を表わすことと関連づけられたという説・・・など様々です。
 写真の土人形は、明治時代末期頃、山形県酒田地方で焼かれた土人形で、おっとりとした白ねずみの目つきと、大黒の素朴な微笑みが、なんとも穏やかな雰囲気をかもし出す逸品です。

2004年度  2005年度  2006年度  2007年度  2009年度  2010年度  2011年  新着情報に戻る









Mail:info@japan-toy-museum.org


〒679-2143
兵庫県姫路市香寺町中仁野671−3

TEL: 079-232-4388
FAX: 079-232-7174