2009年12月



エルツの天使のキャンドルスタンド
(ドイツ・エルツ地方/木/1970年代) 


 ヨーロッパのキリスト教の国々では、11月末の日曜日からキャンドル(ロウソク)を四本立て、一週間ごとに一本ずつ火を点していき、クリスマスの準備に入ります。この期間を「アドヴェント(待降節)」と呼びます。
 ドイツをはじめとするヨーロッパでは、この季節、夕方4時あたりには日が落ちてしまい、太陽が弱まる時期です。その太陽を元気づけるために点されるものがキャンドルだと考えられています。ドイツのクリスマスマーケットでは、色とりどりの、さまざまな形をしたキャンドルが並び、日常にキャンドルが溶け込んでいます。キャンドルの火は、心を照らしだす精神的な燈にもなっているのです。
 写真の天使のキャンドルスタンドが製作された地域は、チェコと国境を接するエルツ山脈地方(ザクセン州)です。19世紀まで豊富な鉱物資源で栄えてきました。しかしこの地域は、冬は長い期間雪に閉ざされて厳しく、村人たちの生活はとても苦しいものでした。廃坑後、村人たちは、身のまわりの菩提樹やブナの木を利用し、ロクロを使用して、木製玩具を作るようになりました。エルツ山地の木工芸品にキャンドル立てやキャンドルを持った天使の人形が多いのは、鉱山労働は危険がつきものであるため、鉱山職人の一人一人に守護天使がついていたという伝承があったからです。

2009年11月



「精霊の日(ディア・デ・ムエルトス)」のガイコツ人形
(メキシコ/1980年代) 


 10月31日のハロウィンは、日本でも年々、賑やかに紹介されるようになりました。ハロウィンは、カトリックの「諸聖人の日(万聖節)」の前夜の行事で、ケルト人が行っていた収穫感謝祭がもとになっているといわれています。ケルトの人々にとって、10月31日は一年の終わり、つまり大晦日で、この日には死者の霊が家族を訪問し、精霊や魔女が町にあふれ出すと考えられていました。墓地に花を供え、町中に火を灯して、目に見えない霊たちを迎え、一年の感謝がささげられていました。
 この「諸聖人の日」がスペイン経由でメキシコに伝わり、「精霊の日」と呼ばれる独特の祭りが生まれたのでしょう。
 メキシコの「精霊の日」も、10月31日がイブで、11月1日が当日。10月も半ばになると、町々の至るところでご先祖さまを迎える準備が始まり、多くの祭壇が設けられます。祭壇には、マリーゴールドの花、ろうそく、パン、故人が好きだったものなどとともに、賑やかに彩色されたドクロやガイコツ(カラベラ)がところ狭しと並べられます。街の屋台では、魔物の仮面、吸血コウモリなどと一緒に、ドクロをかたどった砂糖菓子やガイコツの人形が売られて、子どもたちが買いに集まります。
 昔からメキシコでは、絵画や工芸の中に死の世界や死者をテーマにしたものが数多く見られます。その根底には、スペイン侵略に対する激しい怒りと深い悲しみが込められているといわれています。
 死者を象徴するはずのガイコツ人形は、歌い、踊り、働き、恋をし、結婚し、出産し、まるで「生」を謳歌しています。楽しげなガイコツの人形や玩具を見つめていると、悲しみをユーモアにまで昇華させる力をもつメキシコ文化の懐の深さが感じられます。
 画像は、「ガイコツのバランス遊び」。高さ12cmほど、グァナファト州で作られる土製玩具で、4号館2階の常設コーナーに展示しています。

※メキシコのガイコツの玩具のことは、こちら(学芸室からNo.14)でも一度、紹介いたしました。

2009年10月



きびがら姉さま
長野県下伊那郡/布・トウモロコシの皮/昭和中期


 姉(あね)さまは、女性の髪形をまねて和紙などで作り、それに千代紙や古布などの着物を着せて人形を作り、少女たちが日常のままごと遊びなどに使った手づくりの人形です。江戸時代に江戸・京阪などの大都会で流行し、広く各家庭で女の子の遊び相手として親しまれました。その作り方の技法はやがて全国に伝えられ、各地の城下町を中心に特色ある姉さまが作られるようになりました。
 通常は和紙を筆軸に巻き、これを押し縮めて皺を付けたものを利用して島田や桃割れ丸髷などの髪型を作り、顔を付けて頭を作り、それに着物を着せて遊ばれます。ところが田舎では皺をつけた和紙によく似たとうもろこしの実を包んでいる皮=包葉を利用して作られ、きびがら姉さまと呼ばれました。とうもろこしは文献によれば、1579年にポルトガル人が長崎または四国に伝えた外来植物です。当館は長野・静岡・鳥取・高知・熊本の各県で作られたものを所蔵していますが、かつては全国で作られたのではないでしょうか。
 また、当館では、遠くはなれたチェコやハンガリー、メキシコなどのきびがら人形(とうもろこしの皮)も所蔵しています。
 これらの資料は開催中の「人形遊びの世界」で展示中です。

2009年9月



ついばむ鶏
日本/ブリキ/明治後期
9p×15p


 「ついばむ鶏」はヨーロッパに古くからある伝承玩具です。台の下のおもりが回転すると、鶏の首が上下して、餌をついばむ動作をします。ヨーロッパを中心に世界に広まり、アジアやアフリカ、中南米でも作られています。恐らく、ヨーロッパ列強が、世界に進出するのにあわせて、各地で作られるようになったのではないでしょうか。
 わが国でも作られた形跡はないかと調べていましたが、数年前に偶然入手したのがこのブリキ製のついばむ鶏です。わが国でもついばむ鶏が作られたことを立証する貴重な品です。
 わが国でブリキ印刷の技術が導入されたのは、明治30年以降です。絵柄などから、その時代に作られたと推測されます。 面白いのは、「意匠登録・実用新案」の文字が印されていることです。
 この資料は、現在開催中の特別展『なつかしのおもちゃ博覧会』で展示しています。

2009年8月



かくれ屏風
【上:郷土玩具(新潟県水原)下:昭和30年ごろまで駄菓子屋で売られていた厚紙製】


 夏休みにはいり、当館恒例の夏休みおもちゃ作り教室が始りました。作るものはその年の企画展や特別展と関連するものを作っているのですが、毎年変わらず作っているのが「かくれ屏風」です。30分もあれば簡単に作れ、その仕掛けの面白さが子供たちの心を捉え、人気があるからです。大きさは子供の手のひらに乗るほどですが、5枚続きの屏風の絵が、折りたたんで「無くなれ」と呪いをして開けると、不思議なことに絵が消え、再び折りたたんで「出て来い」と呪いをして開けると絵が現れます。子供たちだけでなく大人にも人気があり、当館自慢の講座です。
 この不思議なおもちゃは江戸時代からの古い歴史を持ち、享保12年(1727)刊の『目付絵』には「だん十郎のからくりびょうぶ」、嘉永6年(1853)刊の『守貞漫稿』には「京阪は黒厚紙五片を白紙を以て両端と央と交互に挟めり江戸制は杉板六片を繋げり」とあり、図も掲載されています。板面に歌舞伎役者の家紋等が描かれていたので、「団十郎のからくり屏風」とも呼ばれました。地方によっては「ペタクタ」「隠れ屏風」「カッタリカッタリ」と呼ばれたようです。
 この玩具は現在も新潟県水原では郷土玩具として作られており、厚紙製のものは昭和30年ごろまで駄菓子屋で売られ、縁日などでも特製の物が売られていました。水原のものは現在開催中の企画展「神戸人形と世界のからくり玩具」で展示しています。


2009年7月



明治の剣玉と昭和初期の日月ボール


 日月ボールとは、今も子どもたちに人気のある剣玉のかつての呼び名です。大正初期から昭和初期にかけて、この様に呼ばれました。
 剣玉は江戸時代には、大人が酒席の遊戯具にした鹿角製のものがあったと文献に記されていますが、子どもの遊び道具になったのは明治時代です。当時の剣玉は、棒の先端を剣のように尖らせ、他の端には玉を受ける皿型の凹みがあり、それと球を組み合わせたものでした。
 現在のように柄の左右に受皿があり、お皿が3つもある剣玉は、広島県の江草濱次が考案し、大正8年に実用新案として登録されたといいます。球を太陽(日)に見立て、三日月のような形に削った皿で受けることから「日月ボール」と呼ばれました。
 けん玉は広くヨーロッパなどにもありますが、受け皿はひとつです。受け皿3つは日本独特の剣玉です。写真右は日月ボールで全長14cm。昭和初期に大阪で作られ、「日月ボール」のシールが貼られた貴重な資料です。
 現在開催中の「なつかしのおもちゃ博覧会」で明治の剣玉(左側)と共に展示しています。


2009年6月



麦わらの蛍篭


 当館の東側に広がる水田の田植えが終わりました。水田と当館の敷地の間には農業用水路が流れていて、田植えが終わると用水路に蛍の姿を見かけます。昨夜、淡い光を出して柿の木に止まっているのを見つけました。
 この地方の子供たちは昭和20〜30年頃まででしょうか、麦わらを編んで蛍篭を作り、捕まえた蛍を入れて遊びました。この三角形をした麦わらの蛍篭は一番上の穴から捕まえた蛍を入れますが、実は底の部分は麦藁が十文字に渡されているだけで底がありません。底がなければ蛍は逃げるはず。なぜ底がないのか不思議です。
 実は蛍を篭に入れる前に篭の中には草が詰め込まれていて、蛍はその草の中で光を放つて子供たちを喜ばせ、やがて底から自然の中に帰っていくのです。捕まえたら逃がさないのではなく、楽しませてくれた後は自然に戻す。 昔の人の自然との共存の知恵が込められています。
 同様の蛍篭は、播州地方だけでなく広く全国で作られたようです。

2009年5月



貝の下駄(上左:北海道紋別、上右:北海道札幌)
(下:兵庫県明石)


 貝の突起の部分に穴をあけ、足の長さほどの紐を通して結び、子供たちが履いて遊んだ手作りおもちゃです。空き缶に紐を通して作られた缶下駄と同様のものです。
 明石の貝の下駄は、井上館長が1970年代に兵庫県明石市二見で収集したもので大アサリとも呼ばれるウチムラサキ貝で作られています。北海道のものは1990年代に北海道の玩具収集家から寄贈された資料でホッキ貝とホタテ貝製です。いつ頃からこの貝の下駄が作られるようになったのかその歴史は分かりませんが、ウチムラサキ貝は10cm前後になる2枚貝であり、日本全土に生息していますので、遠い昔から日本各地の海辺に近い地域で作られ、子供たちに遊ばれてきたのではないかと考えられるのです。
 貝の下駄は舗装された道路ではすぐに壊れ、未舗装のところでないと遊べません。丈夫な空き缶が出回ると急速に姿を消し、過去のものになりました。この資料は、2号館の草花遊びのコーナーに常設展示しています。


2009年4月



花籠(昭和40年代)
【左から兵庫県西脇/竹、滋賀県水口/麦藁、福岡県柳川/竹、香川県観音寺/経木】


 この直径12cmほど(後列左端)の小さな手提げ籠は、かつて春のこの季節に花籠と呼ばれ、子供たちが野遊びに行くときに持って行った子供用の籠でした。
 当館が開館した昭和49年頃には、春先になると、この花籠を自転車の荷台いっぱいに積んで売り歩く、行商人の姿があり、風物詩のひとつでした。子供たちは買ってもらった花籠にアラレやお菓子を入れ、野原や田んぼに野遊びに出かけたのです。
 この花籠(後列左端)は当館から北東約20kmほどの西脇市水尾という農村で作られましたが、明治42年生まれの作者が亡くなると後継者もなく、姿を消しました。
 子どもたちが野遊びに使う小さな籠は全国各地にあります。当館は滋賀県水口、兵庫県西脇、香川県観音寺、福岡県柳川などで作られた花籠を所蔵しています。なかでも水口は麦藁、観音寺のは経木が使われ、編み方や形、色あいなどに特色があります。
 この資料は、2号館の草花遊びのコーナーに常設展示しています。

2009年3月



四世面竹岡本正太郎師の有職雛(日本/昭和30〜40年代制作)


 1千年以上にわたって政治文化の中心地だった古都・京都は、古くから仏師や能面師が活躍した土地柄です。その技能を生かして江戸時代には雛人形や御所人形の一大生産地となり、人形作りを家業とする多くの家が輩出しました。しかし明治維新とその後の混乱により、その多くが姿を消しました。
 面竹家は、数少ない江戸時代から続く人形師の名門「面庄」家の分家です。四世面竹の岡本正太郎(1895〜1980)師は昭和30年代から50年代にかけ京人形師として活躍。1953年には御所人形制作で無形文化財=人間国宝の指定を受けられ、四世面竹作の人形は京都国立博物館にも収蔵されています。この有職雛は、他の雛にはない、独特の気品と風格を醸し出していますが、とりわけ、細い面相筆で何度も何度も薄墨を塗り重ねて描かれた目や眉などの表情は、見る人の心を魅了するでしょう。
 当館にあるのが不思議と思える高級(高価)なこの有職雛は、昨春亡くなられた随筆家の岡部伊都子さん(1923〜2008)が所蔵されていたものです。ご縁があって、1986年の春に当館に寄贈いただきました。現在開催中の特別展『雛遊びの世界』で展示しています。

2009年2月

   

雛料理の器いろいろ(日本/明治末〜大正期)


 日本玩具博物館に寄贈される雛飾り一式には、時折、子ども達の手にあわせた小さな食器類が含まれています。寄贈者(明治末〜昭和初期生まれ)に少女時代の雛祭りについて伺うと、雛人形そのものよりも、そうした小さな器にまつわる思い出が多く語られるのです。桃の節句に母親が特別に作ってくれた、「まるでままごとのようなお料理がいつまでも心に残っている」と。
 画像左側のように、一辺が20cmほどの小さな塗りの膳には、九谷焼の愛らしい器が置かれ、それには、5cmほどのカレイの焼きもの、わけぎのぬた、小さな蛤の吸い物、菜の花をみじん切りにしたまぜご飯などが小さく盛られます。まずは内裏雛にそれらの祝い膳を供えると、あとは、友人を招き、お雛さまと同じお膳で同じものを食べて、踊ったり歌ったり…。
 桃の節句にいただく料理は地方によっても様々。春一番の旬の素材が選ばれること、女児の健康と幸せな結婚、子孫繁栄を願う意味をもつ食材が選ばれること、病気をふせぎ、薬効のあるもの、おめでたいとされている料理が作られることなどに共通性があります。
 画像右側は、酒器セットで明治時代、神戸の町家の雛祭りに使用されていたものです。古代中国において、この季節に花を咲かせる桃は、魔をはらう霊力を秘めた仙木と考えられ、3月3日の上巳節に、桃花や桃枝を浸した酒を飲むと、百病をのぞき顔色がよくなるとされていました。節句(節供)の概念は、その中国から古代日本に伝えられたもので、以来、3月の節句において、桃花酒は常に重要な位置を占めてきました。
 春の花が描かれた愛らしい器(銚子=高さ10.5cm)には、明治時代の少女たちの雛祭りに、一千数百年の時をこえて桃花酒が注がれていたのです。
 子どもたちのための器ですが、造形も描彩も細部までしっかりとよい仕事がなされ、小さなサイズがかもし出す可憐な美しさと、年々の祝儀を務めたもののもつ品格が感じられます。

2009年1月





伏見人形の一文牛<京都市/明治時代>


 今年の干支の丑(牛)は、農耕に欠かせない動物として古くから大切に扱われ、牛の玩具も各地で作られてきました。また牛は草を食べることから、疱瘡にかかったときに出来るカサブタ(瘡=くさ)を牛が食べ、早く病が治るようにとの願いを込めて、各地で牛の郷土玩具が作られました。
 現在、1号館で開催中の「諸国牛の玩具めぐり」では、日本各地の郷土玩具の牛を約200点展示していますが、疱瘡除けとして作られた各地の牛も幾つか展示されています。この一文牛もそのひとつで、京都の伏見で江戸時代から作られてきました。
 全長9cmほどの朱泥色の小さな牛ですが、背面には○に十の字が描かれ、腹部には小さな穴が開いています。昔はこの穴に米粒を詰めて川に流すと疱瘡(天然痘)除けの呪いになると信じられました。今ではこのような俗信を信じる人もなく、一文牛は現在も作られていますが腹部に穴はなく、昔の人々の信仰を知る貴重な資料といえるでしょう。
 この一文牛は学芸室No62でも詳しく紹介していますが、神戸市の小児科医であった尾崎清次氏(1893〜1973)が収集された資料です。縁あって当館に寄贈されたものですが、12年ぶりの公開です。  

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