2014年12月  

アルザス地方の硝子玉のオーナメント(フランス/2010年代)


 

 モミの木をクリスマスに飾るようになったのは17世紀頃のアルザス地方(フランス北東部でドイツと国境を接し、住民の大部分はドイツ系)とされています。パンの文化史研究者の舟田詠子さんは、フライブルク市(ドイツ南西部の都市でアルザス地方に接する)の古文書館で精霊病院のクリスマスツリー用の請求書を調べあげるなどして、17~18世紀のクリスマスツリーには、リンゴなどの木の実、レープクーヘンやオブラーテンなどの平らな菓子などが吊るされたことを明らかにしておられます。
 写真は、昨年冬、館長がアルザスのクリスマスマーケットから収集したガラスボールのツリー飾りで、赤い硝子玉、ジンジャークッキー型の硝子細工が華やかです。この赤い硝子玉には次のような逸話が伝わります。アルザス地方では、上述のように、クリスマスツリーにお菓子や秋の実りを象徴する赤いリンゴが好んで飾られていたのですが、1858年、アルザス地方は大不作。そこで硝子職人が吹きガラスで赤いボールを作り、リンゴの代用としたところ、それが定着したというのです。今では一般的なツリーのガラス玉も、そのモデルが木の実だったというのは興味深いことです。

 
2014年11月 

クリスマス・ボート(ギリシャ/2010年代)


 

 ギリシャには、クリスマスが近づくと、大小の船の模型を作って飾りつける習慣があります。1950~60年代頃、長い航海に出ている父親がクリスマスに帰港するのを出迎えるために作られたのが始まりとされています。最初、周辺の島々のものであった風習が、半世紀ほどの間にギリシャ各地へ拡がり、海洋国らしいクリスマス飾りとして親しまれるようになりました。船には電飾が施され、家々の居間やお店のショーケースなどに飾られる他、町の広場では大きな船形のイルミネーションが夜を彩ります。
 昨年、アテネ在住の方がクリスマス展にご来館された折、「ギリシャでは、クリスマスに船の模型を飾る風習があります。こちらのクリスマス展にぜひギリシャのボートを飾って下さい。」と話されました。帰国後、古い作品を探して、アテネから今年の2月に届けて下さったのが、このクリスマス・ボートです。高さは約70㎝、船首から船尾までの長さも約70㎝の帆船で、ギリシャの国旗が飾り付けられています。赤い豆電球がとりつけられているのでスイッチを入れるととてもよい雰囲気です。
 このクリスマス・ボートは、現在、6号館で開催中の特別展『世界クリスマス紀行』でご覧いただけます。
 
2014年10月
 
文化人形(日本/大正~昭和40年代)



 2000年代初頭に始まり、現在まで続いている “レトロ・ブーム”は、高度経済成長に突入した頃の日本、つまり昭和30年代から40年代にかけての風俗や風物を懐古するものといわれています。このレトロブームの中で脚光を浴びたものに「文化人形」があります。けれど、実はこの文化人形、大正時代末期の生まれなのです。
 レーヨン、メリヤスなどで頭、胴、手足をぬいぐるみにし、中におが屑などを詰めて作られます。キラキラとした大きな目が印象的な愛くるしい表情、赤い帽子を大きなリボンで結びとめ、華やかなワンピースをまとった姿が、異国情緒やハイカラ趣味を好む大正末から昭和初期の時代感覚をうまく取り入れたものだったのでしょう。戦前戦中に少女時代を過ごした方々の多くにとって、文化人形は、忘れえない少女時代の思い出につながる、とっておきの一点だといいます。
 戦後、再び復活した文化人形は、その後も長く少女の胸に抱かれ続けて、昭和40年代の始め頃まで人気を博し続けました。20cm程度の小さなものから50cmの大きなものまで様々な種類があり、手足がぶらぶらとしているので、「ぶらぶら人形」も呼ばれました。
 ところで、文化人形の「文化」とは、いったい何を表現しているのでしょうか。文化という言葉が流行するのは、関東大震災(大正12・1923年)後のことといわれています。文化センター、文化住宅、文化包丁、文化鍋……。ここでいう「文化」とは「新しく進歩的でハイカラである」というような意味をもっており、文化人形もまた、これらが誕生した時代の憧れを表現したものと考えられます。
 現在、1号館で開催中の企画展『日本の人形遊び』では、大正末期から昭和40年代にかけて作られた文化人形をひとつのコーナーにまとめて展示しています。

 
 2014年9月  

人形芝居用の首人形(新潟県佐渡市、徳島県鳴門市)

 

 「首人形」は土や練り物などの頭に、竹串や木串を刺したもので「串人形」とも呼ばれます。この首人形には衣装を着せて姉さま遊びに使ったものと、人形芝居が盛んな地方で子どもが人形芝居の真似ごとをして遊ぶために作られたものなどがあります。多いのは姉さま用で、全国各地で作られました。人形芝居遊び用のものは人形芝居が盛んだった地方で作られ、全国でも限られていました。
 佐渡は人形芝居が盛んで、最盛期には人形芝居の座が40数座もありました。そんな土地柄を反映して、子どもらのために、竹串に土製の頭を付けた首人形が作られました。中でも昭和初期の佐々木佐輿吉制作の首人形は稚拙な筆使いから全国屈指と高い評価を得ていました。
 さらに徳島県の鳴門も阿波浄瑠璃の人形芝居が盛んな土地柄で子どもたちのために幕末頃から「一文でこ」と呼ばれる首人形が作られてきました。昭和初期頃の制作者・段重太郎は佐々木佐輿吉と並んで高い評価を得ていました。
 いずれも戦前に廃絶し遺された作品は少ないのですが、当館所蔵の尾崎清次コレクションにあり、この度の「日本の人形遊び」展で展示しています。

 
2014年8月  

とうもろこしの皮の人形(世界各地/1970~2000年代製)


 
 私たちはトウモロコシの実を食べるとき、実を覆っている皮を剥きます。そのとき、皮を捨ててしまうのではなく、ひと晩、紙などに挟んで大事に形を整えて置くと、その皮をつかって人形を作ることが出来ます。世界を見渡すと、トウモロコシの皮の人形を伝承する国はたくさんあります。日本でも、江戸時代の頃から、トウモロコシの皮で姉さま人形を作る地域がありましたから、懐かしいとお感じになられる方もあるでしょう。
 現在、6号館で開催中の『世界の国の人形』展では、スロバキア、セルビア、ハンガリー、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、エクアドル、アメリカ合衆国、ケニア、ネパール、中国…などの国々からやってきた愛らしいトウモロコシ人形をご紹介しています。
 穀物を豊かに実らせた「穀物霊」は、役割を終えた後、その皮や殻の中に宿る――このような考え方、感じ方は、アジアやヨーロッパをはじめ、アフリカ、アメリカ大陸でも広く知られ、特に、トウモロコシを主食に近い食物として育ててきた地域においては、その皮もまた大切に扱われてきました。トウモロコシの皮の人形は、それぞれのお国のファッションを映して、見る者の目を楽しませてくれますが、その背景には、豊かな実りへの感謝と豊作への期待という、世界共通の心が込められているのです。
 さて、私たちはトウモロコシの実を食べた後、その芯にあたる部分は捨ててしまいますね。ところが、商品になった人形などを知らないかつての農村などでは、トウモロコシの芯に古布を巻き付けて女の子のための手遊び人形が作られていました。
 1870年代から1880年代にかけての西部開拓時代を描いた『大草原の小さな家』という物語の中、現金収入の少ない開拓民の家で育つ少女のローラがクリスマスにプレゼントしてもらったのが、このトウモロコシの芯の人形でした。芯にハンカチを巻き付けただけの素朴なものでしたが、ローラは「シャルロッテ」と名付けて愛しんでいました。
 写真は、左から順番に、セルビア、スロバキア、メキシコ、ネパール、ケニア製で、高さは11~16cmと、少女の手のひらに乗るサイズです。そして、右端がハンガリーのケチキメートに伝承されるトウモロコシの芯の人形。ローラが可愛がっていた「シャルロッテ」を彷彿させます。

 
2014年7月 

グレドナー地方の近世の人形(イタリア/2000年代復刻)

 
 
南チロルに位置するグレドナー地方で木製玩具づくりが盛んになったのは17世紀のこと。中でも、腕と肘、脚と膝の関節が動く“ペグ・ドール”は、少女たちの圧倒的な支持を受け、長く愛され続けました。オーストリアやドイツなどでも関節をもった木製人形が家内工業によって生み出され、近世ヨーロッパの庶民階層の暮らしの傍に置かれていたのですが、第二次世界大戦を境として、このような素朴な人形や玩具は一気に衰退しました。
 写真のペグ・ドールは、20世紀末にFranz&Judith Canins夫妻によって再現的に製作されたもの。グレドナー地方の民芸伝承のために、当時と変わらぬ素材と製法が選ばれています。日本の“市松人形”などもそうでしたが、こうした人形は裸のままで販売され、買った人たちが、好みの布を合わせ、家庭で下着やドレス、帽子を作って着せかけていました。
 今、開催中の『世界の国の人形展』で展示しているのですが、どれもこれも裸ん坊では可哀想なので、一体を選んでエプロンドレスを作って着せました。こうすることで、買ってきた人形に一層の愛着がわくものですね!
 
2014年6月 
 
昭和初期の姉さま人形




姉さま人形は、縮らせた和紙で島田、丸髷、桃割れなどの婦人の髪形を真似て作り、千代紙などの衣装を着せた紙人形です。手も足もなく、顔も描かれていないものが多い。日本髪の美に重点を置いて作られ、観賞用ではなく、少女たちが日常のままごと遊びに使った人形です。江戸時代に女の子の遊びとして広く各家庭に普及し、嘉永6年(1853)の『守貞漫稿』には和紙で作る髪型の作り方が詳しく述べられています。江戸末期頃には城下町を中心に各地で商品としても売り出され、各地域毎の特色もありました。写真の姉さま人形は今から約80年も前のもので、左から会津若松、松山、熊本で売られた貴重品。顔が描かれています。いずれも当館所蔵の尾崎清次コレクションに属し、現在開催中の企画展「日本の人形遊び」で展示しています。

 
 2014年5月

武者人形・応神天皇と武内宿禰(大正時代/京都製)


 
江戸中期頃の端午の節句に飾られる武者人形は、歴史上や伝説上の英雄豪傑たちが題材として挙げられます。源義経や弁慶、神功皇后と武内宿禰、太閤秀吉と加藤清正など、歴史物語や芝居に登場する広く庶民に知られた大将と従者の組み合わせが好まれ、また高さも1mを超えるような大型のものも作られました。こうした武者人形は今ではあまり見られなくなりましたが、戦前までの京阪地方では剛健な兜や甲冑より、優美な武者人形を節句飾りの主役に据える家庭の方が多かったようです。

写真は大正9年作の武者人形「応神天皇と武内宿禰」です。20年ほど前に京都市内の町屋に暮らすご婦人から寄贈を受けたもので、人形の高さは65㎝を超える大型。寄贈者により長年手厚く保管されていたため、今も作られた当時のままのつややかで美しい姿を見ることができます。


さて、この応神天皇は古くから“武神”として信仰があり、武者人形の題材としても尊ばれてきました。応神天皇の母君である神功皇后は、お腹に亡き夫・仲哀天皇の子どもを身ごもったまま、忠臣・武内宿禰とともに出征します。そしてその戦からの帰り、筑紫で誕生した赤ん坊がのちの応神天皇です。武内宿禰は、五代にもわたり、天皇の側近として国政を支えたとされる伝説的人物で、老臣の姿で表現されます。遠征の最中に強き母から誕生した応神、齢三百歳を超えたとされる武内―――彼らの姿をうつした武者人形には、男児の出世と健康、長命への願いが込められたのでしょう。この武者人形は、現在、6号館で開催中の初夏の特別展『端午の節句~京阪地方の武者飾り~』でご覧いただけます。
 
2014年4月  
 
子どもの守り袋“甕割り唐子”(明治末~大正時代)

花巻土人形・甕割り唐子
(明治末~大正時代)


 現在、一号館では春の企画展「ちりめん細工とつるし飾り」を開催して御好評をいただいておりますが、展示中の古作品の中から、明治・大正時代の人々の子どもたちへの暖かいまなざしが感じられる作品をご紹介します。
 かつて、元気に外遊びをはじめた子どもたちの帯には、「守り袋」と呼ばれる巾着が下げられました。『女学裁縫教授書』(金田孝女著/明治27年刊)には、中に守護札とともに薬や住所氏名の書付などが収められ、持ち主の子どもが道に迷ったり、不慮の事故に巻き込まれたりした折に用を為す必需品であったと解説されています。実際に、江戸時代の浮世絵や明治時代の風俗画などに描かれる幼い子どもたちの帯には縁飾りのついた「守り袋」が見えます。この守り袋の裏側は巾着仕立てになっているのですが、表側には“押絵”や“きりばめ”等のお細工物の手法によって、子どもたちの喜ぶ小動物や四季の花々、あるいは宝船や鶴亀などの宝文様、また、物語の一場面などが描かれました。
 写真の「守り袋」は、中国北宋時代の歴史家・司馬光(1019~1086)の逸話から“甕割り唐子”をデザインしたものです。司馬光の少年時代のこと、庭で遊んでいるうち、友人が水甕の中に落ちてしまいました。司馬光少年は友人を救けるため、迷うことなく、庭石を抱えてガンと水甕を叩き割り、友人は割れたところから救いだされました。水甕を壊してしまった司馬光少年は、父親のもとに謝りに行きます。「お父さんの言いつけを聴かず、庭で遊んでいて、お父さんの大切な水甕を割って壊してしまいました。申し訳ありません。」
と。けれど、壊したわけを聴いた父親は“器は人命より軽し”と少年を褒め、生命の大切さをあらためて説いたと伝わります。
 この物語は、江戸時代から明治・大正時代、人々によく知られており、祭礼の山車のからくり人形や郷土人形の題材にもなっています。有名なところでは日光東照宮の陽明門に施された彫刻でしょうか。
 “甕割り唐子”の守り袋は、明治生まれの若い女性が裁縫学校で作ったものです。将来、母親になることを思い描き、子どもの生命を守護するにふさわしいデザインとして、心を込めて大切に縫ったものと思われます。

 
2014年3月 


ちりめん細工の貝桶と合せ貝
大正時代 (高さ20㎝×巾17㎝)


 貝桶は、平安朝時代からの古い歴史を持つ遊び道具の合せ貝を入れる容器です。合せ貝は蛤などの2枚貝を利用した遊び道具で、蛤は左右2枚の貝殻の模様が同じであり、また他の貝殻とはかみ合わないという特性を利用して遊ばれ、貝の内側には美しい絵が描かれています。貝桶は室町後期頃から江戸時代にかけて婚礼道具の中に組いれられるようになりましたが、通常は木製で、蒔絵で源氏絵、松竹梅、鶴亀などが美しく描かれました。
 写真のちりめん細工(お細工物)の貝桶は、大正元年頃に大正天皇の即位を祝って共立女子職業専門学校教師の関与志(天保12年生れ)さんが作られ献上されたものの控えの作品です。合せ貝は4点のみです。縁者の方から寄贈を受けましたが、貝桶でちりめん細工の遺された古い作品は少なく貴重です。現在開催中「ちりめん細工とつるし飾り展」で展示中です。


2014年2月 

古今雛~江戸型と京阪型~ (江戸時代後期)

  

 江戸時代の安永の頃(1772~80)、それまでは雛人形と言えば京都製であったのが、京好みを脱した新型雛が登場して江戸の人々に愛好され始めました。根付師でもあった名工・原舟月(二代目)は、江戸好みの雛人形を作って脚光をあびます。人形の顔は面長、両眼には硝子玉や水晶玉をはめ込んで、活き活きとした表情をもっています。衣装には金糸や色糸で華やかな縫い取り(刺繍)がほどこされ、袖には紅綸子が用いられています。こうした様式は「古今雛」と称され、現在に続く雛人形の原型とも考えられます。
 「古今雛」が江戸で大人気を博すると、京阪地方においても同じような様式の雛人形が作られるようになります。けれども、江戸文化に支持された“江戸型”の古今雛と京の文化を受け継ぐ“京阪型”の古今雛との違いは際立っていました。引き目鉤鼻で静かな印象の“京阪型”に対して、“江戸型”は、目も口も大きく開いて華やかな表情をもっています。
 例えば、女雛を例にとって比較してみましょう。江戸型の女雛は袂を低く膝元におさめて袖の中に手を隠した姿で作られます。対して、京阪型の女雛は、袖から両手をのぞかせ、檜扇を広げた姿に作られます。江戸型の衣装には浅葱や江戸紫などの渋い色調が好まれるのに対し、京阪型では緋や萌黄の明るい色調が多用されています。
 地方都市で飾られた「古今雛」は、こうした江戸型や京阪型の雛人形の姿を真似ながら、独自の様式を発展させていったといえます。
 6号館の『雛まつり~江戸の雛・京阪の雛~』では、このような違いに着目しながら、展示していますので、ぜひ、ご来館の上、細見していただきたいと思います。
 
2014年1月

徳島張子の春駒(昭和初期)

 


この玩具は、長さ40㎝ほどの丸竹の先に張子製の馬の首が付き、丸竹の下部の先に車が付いたものです。子どもがまたがって遊びました。首馬とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて流行しました。しかし現在も作られているのは全国で数カ所です。
徳島張子も戦前に廃絶しましたので現存するものは大変少なく、幻の玩具ともいえる貴重な作品です。昭和5年刊の『日本郷土玩具』(武井武雄著)には「竹馬」の名で紹介され、「白麻の髭、金襴で飾り、顎の側面に群青で強い隈取り描かれているのが効果的である」と記されています。
現在開催中の企画展「おもちゃの馬」では、この春駒の他にも、同様の玩具で昭和初期の熊本県宇土張子の首馬、福岡県柳川張り子の首馬、愛知県西尾張り子の首馬が展示されています。また同時代に作られた貴重な馬のおもちゃ約40点余を展示しています。

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