「正月の玩具と節句の人形飾り」 | 日本玩具博物館

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常設展

新常設展*3 「正月の玩具と節句の人形飾り」

会期
2020年10月26日(月) 2022年6月26日(日)
会場
6号館西室

「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目を表します。陰陽道の考え方では、奇数の重なる日は良くないことが起きるとされ、それを避けるための行事が“節供(のちに節句)”となりました。季節ごとに神に供えを行い、生命力にあふれる旬の植物の力によって邪気を払うこと――桃の節句の桃花酒や端午の節句の菖蒲酒のように――が節供本来の意味だったと思われます。

元旦(がんたん=1月1日)、上巳(じょうし=3月3日)、端午(たんご=5月5日)、七夕(たなばた=7月7日)、重陽(ちょうよう=9月9日)が五つの節句と考えられてきたようですが、江戸時代に入ると、一年の始まりに当たる元旦は、特別な祝儀を行う別格の日となり、代わりに人日(じんじつ=1月7日)が加わりました。

中国から日本に伝わった節句行事は歴史を経る中で、農耕儀礼や祖霊信仰、人形を愛する文化などと混交し、また節句に子どもの成長と幸福を祈るという日本独自の性格をプラスすることで、他のアジア諸国には例をみない生活文化を発展させてきました。
本展では「正月」と、他の節句をめぐる文化の中から、「上巳」、「端午」、「七夕」を取り上げ、それぞれの行事を代表する人形や玩具を展示します。これらの中には、私たちの祖先が育んできた子ども観や宗教観、美意識などがよく表現されています。

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「正月」の玩具・遊戯具、「上巳(桃の節句)」の雛飾り展示風景


正月の玩具と遊戯具

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郷土ゴマのいろいろ

正月の遊びを楽しく美しく彩ってきたものに、凧、コマ羽子板、双六、歌留多
などがあります。これらは、長い歳月、日本の風土に磨かれ育まれたユニークな色と形をもっており、私たちの祖先の価値観や美意識などを物語る民俗資料でもあります。ここでは正月の玩具や遊戯具の中から、凧やコマ、羽子板の豊かな世界、その一端をご紹介します。

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羽子板のいろいろ
正月の玩具と遊戯具展示コーナー


桃の節句の雛飾り

中国から伝わった桃の節句の風習に日本独自の人形文化が加わり、女性の節句・女児の祝いとして雛まつりが行われるようになるのは、江戸時代に入ってからのことです。江戸前期は、毛せんの上に紙雛と内裏雛だけを並べ、背後に屏風を立てた平面的な飾り方で、調度類も数少なく、簡素かつ自由なものでした。雛まつりが盛んになるにつれて、雛人形や道具類も賑やかになり、雛段の数も次第に増えていきます。安永年間頃(1772~81)には4~5段、天保年間頃(1831~45)には、富裕な町家の十畳座敷いっぱいを使うような贅を尽くした雛段も登場してきます。

そうして江戸を中心に「段飾り」が発展する一方、上方では「御殿飾り」が優勢でした。建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形を添え飾るものです。御殿飾りは明治・大正時代を通じて京阪神間で人気があり、戦後には広く西日本一帯で流行しましたが、 昭和30年代後半には百貨店や人形店などが頒布する一式揃えの段飾り雛に押されて姿を消していきました。
ここでは、明治末から大正時代、続く昭和時代に京阪地方で飾られた優美な雛飾り――段飾りや御殿飾り――を展示します。

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檜皮葺御殿飾り雛


端午の節句飾り

中国から伝わった端午の節句の風習が、男子の節句として庶民層まで広がりを見せるのは江戸時代のこと。江戸前期は、菖蒲兜(しょうぶかぶと)、毛槍(けやり)、長刀(なぎなた) などの武具や幟(のぼり)を家の門口に勇ましく立てる屋外飾りが主流でしたが、やがて武者人形などの室内飾りが加わります。後期に入ると、節句飾りは屋も室内も大型化し、市部の富裕階級は、豪華な飾り付けによって家の権勢を競い合いました。今日に伝わる節句飾りは小型化していますが、様式化された飾り物の中に古い時代の華やかな節句飾りの要素を伺うことが出来ます。
関東地方が質実剛健な甲冑飾りを好んで発展させたのに京阪地方では優美な武者人形が長く愛されてきました。ここでは、大正時代に京阪地方で飾られた武者人形と昭和初期、京阪神の裕福な家庭にも普及していた甲冑飾りを対峙して展示します。

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武者人形・応神天皇と武内宿禰
桃の節句(上巳)・端午の節句展示コーナー


七夕飾り

七夕もまた古代中国で発展した初秋の儀礼。天の二星(牽牛星・織女星)に織物の上達を祈るもので「乞巧奠(きっこうでん)」と呼ばれていました。それが奈良時代の宮中に伝わり、やがて、祖霊祭としての「盆行事」や、実りの秋を前にした「豊作祈願」などとも結びつき、日本独自の発達を遂げていきます。

織物に加え、和歌や書、管絃、立花、香道などの巧を祈る芸能祭のような色合いを帯びるのは室町時代のこと。私たちが今日、知るところの笹飾りが盛んに行われるようになるのは、行事の担い手が寺子屋の子ども達の手に移ってからのことです。早朝、子どもたちは、サトイモや稲などにつく朝露をとって墨をすり、短冊に書をしたためて笹につるすことで、書の上達を願いました。
高度経済成長期を境に一気に廃れ、家庭における七夕行事は今ではあまり見られなくなりましたが、ここでは、私たちが暮らす播磨地方に伝わる七夕飾り――塩田で栄えた播磨灘沿岸や銀山の町の七夕紙衣や、港町・飾磨の七夕の船など――を展示し、日本の七夕の豊かな世界の一端を垣間見ていきます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 七夕さんの着物(朝来市生野町/大正時代).jpg
銀山の町生野に伝わる七夕紙衣
播磨地方(但馬地方生野町を含む)の七夕飾り