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*聞き書き「生野の七夕」~2003年から2006年の聞き取りノートより~


●日本有数の銀山を有し、鉱業で栄えた兵庫県朝来市生野町には、美しい七夕紙衣「七夕さん」が伝わっています。生野町は、播磨地域と但馬地域を結ぶ山間部に位置しており、瀬戸内海(播磨灘)へ向かって流れる市川と日本海へ向かって流れる円山川の源流域に当たります。生野銀山の開坑は、大同2(807)年とも伝えられ、江戸時代は幕府の直轄地であり、明治時代には官営鉱山となって政府の財政を支え、日本の近代化に大いに貢献しました。——フランス人の鉱山技師や政府役人も多く暮らした生野は、山間部にありながら、先進的な文化を誇る“マチ”でした。そんな生野町には、2本の笹飾りの間に180㎝ほどの長さの苧殻(皮を剥いた麻の茎)を渡して、そこに数対の「七夕さん」を干すように並べる、播磨灘東岸域とよく似た構図の七夕飾りが伝承されています。


旧吉川家住宅(生野まちづくり工房・井筒屋)/旧浅田邸・旧吉川邸(口銀谷銀山町ミュージアムセンター)
●生野町の七夕飾りは昭和40年代には退潮しましたが、平成16、7年頃には、町の方々のご努力によって復活を果たされています。今年も、7月の第一土曜日、日曜日にかけてクラシックな町家や文化施設において伝承の七夕まつりが行われました。去る7月4日(土)、筆者は、生野まちづくり工房・井筒屋(旧吉川家住宅/国の有形文化財)からお招きを受け、「銀谷(かなや)の七夕」の催事に合わせて、七夕をめぐる歴史と文化を語る講座にお邪魔しておりました。井筒屋の皆さんが生野に伝承される七夕飾りを立て、明治後期から大正時代の「七夕さん」をたくさん飾ってお迎えくださいました。雨模様にも関わらず、多くの方々が会場を満席にして、2時間に及ぶ話を熱心にお聴きくださり、こころ温まるひとときを過ごさせていただきました。


●さて筆者は、平成15(2003)年から18(2006)年にかけて、ちょうど生野の皆さんが七夕の復活に取り組んでおられた時期に当たり、十数回にわたる訪問を通して、生野で子ども時代を過ごされた方々から、戦前戦後に行われていた七夕飾りの様子を聞き取らせていただいています。7月4日の講座にご参加の方々からも要望を受けましたので、当時の聞き取り調査ノートより抜粋して、戦前生まれの女性たちから伺ったお話をここに紹介させていただきます。長くなりますが、もしよろしければ、ご一読ください。


①成瀬みさ子さん(大正10年・生野町新町生まれ→同町小野へ嫁ぐ)の話 (2006年7月調査)
———子ども時代、七夕を7月に祝っていたか、8月に祝っていたかは覚えていませんが、七夕の前日に短冊や「七夕さん」を用意していたのを懐かしく思い出します。笹飾りは七夕紙を近くの店から買ってきて短冊を作り、そこに「たなばたさま」とか「天の川」とかの文字を書きました。私の子ども時代、笹に飾り付けるのは短冊だけでした。「七夕さん」は、毎年、小箱に納めて仕舞ってあり、そこから取り出して飾ります。男の「七夕さん」は平袖に幅の狭い帯をしめ、女の「七夕さん」は振袖に幅の広い帯をしめたものでした。紫地に唐草模様の七夕さんがあったことが印象に残っています。「七夕さん」を飾ると裁縫が上手になると母親に聞かされていました。
———短冊を吊るした笹飾りは2本で、その間に苧がらを渡して「七夕さん」をかけます。「七夕さん」が多いと賑やかになるので、苧がらは4段にも5段にもしてかけ飾っていました。七夕飾りの下には小机を出して茄子や胡瓜の動物、ホオズキ、それから「七夕さんはハツモンくい」と言って、実り始めた野菜を集めてお供えしました。近所に畑などは少なく、ほとんどの野菜は店で買っていました。

1.まずは縦半分に折って三角の頭部を切り出し、肩線に従って前後半分におります
2.次に縦半分に折って袖と身ごろを切り分け、袖の長さを調整します
②荒木千代子さん(大正10年・生野町小野町生まれ→同町新町在住)の話 (2004年4月調査)
———子ども時代、我が家の七夕まつりは確か7月7日だったと記憶していますが、最近の風習と混同しているのかもしれません。前日は近くの山すその竹藪から笹竹を切り出して中庭に面した奥の間の軒に七夕飾りを立てました。2本の笹飾りの間に苧がらを渡して、男女数対の「七夕さん」を飾ります。「七夕さん」を飾った軒下の縁側に七夕棚を作って三方をのせ、茄子やら西瓜やら胡瓜やらを供えました。ほとんどの野菜は店で買っていましたが、近所の畑に出かけると、子どもは「♪七夕さん、ナンバキビとってもダンナイカ(差し支えありませんか/かまいませんか)?」「ダンナイ、ダンナイ」「♪七夕さん、ホオズキとってもダンナイカ?」「ダンナイ、ダンナイ」などと唱えながら、畑の作物を勝手にいただいたりもしました。
———私の実家では、明治42年生まれの長姉の初節句を祝って父が手作りした「七夕さん」が残されています。奥銀谷の小野で仕出屋を営む父は、ハイカラ好き、新しいもの好きの人でしたが、季節のまつりや儀式ごとにも非常に熱心でした。父の作った「七夕さん」は2対。1対は竹模様、もう1対は牡丹模様の着物で、襖紙のような紙で作られています。平袖と振袖、帯のしめ方で男女の区別がつけてありました。中に合わせた籠目模様の紅色の内紙が表紙からずいぶんはみだしているのがおもしろいと思います。「七夕さん」を飾ると裁縫が上達するなどと聞かされていました。


③新町の古老たち(明治末期~昭和初期生まれ/生野町各地生まれ→同町新町在住)の話 (2004年7月調査) ———昔は、7月7日ではなくて、ひと月遅れの8月7日におまつりしていました。飾り付けるのは8月6日。新町だけでなく、口銀谷でも奥銀谷でも、子どもの居る家ならどこでも飾っていました。戦争が始まる前のことですけれど、初七夕を迎えた子ども、特に女の子が居る家では、家のおばあさんや母親とともに紙の七夕さんを作ったり、また近所や縁者からもらったりして飾っていました。七夕さんには、襖紙などを使っていたようです。七夕さんは、三角のところが顔で、人形みたいだと私は思っていました。
———私の家は「七夕さん」ではなく、「ヒナガタ」と呼んでいました。8月7日の午前中には七夕飾りを全部、市川の流し口から流すんですが、このヒナガタが綺麗に出来たら流したくないので、「ほんまは川へ行ってもろたらいいんやけれど、おたくはかわいいから、ここにおってちょうだい(本当は川へ行ってもらったらいいのだけれど、あなたはかわいいからここに居て下さい)」とヒナガタにお断りして、箪笥の引き出しに仕舞っておいたりもしました。
———「七夕さん」はエンゲ(縁側)に飾っていましたが、そこに文机や経机を出して、いろんな野菜を供えました。“七夕さまはハツモン食いのいやしんぼ”と言うので、お供え物は、ハツモンと決まっていました。ここのあたりはマチで、畑などはあんまりないところですから、お店で野菜を買ってくることが多かったです。「七夕さん、ホウズキとってもダンナイカ?」「ダンナイ、ダンナイ」などと、はやすように子ども同士で言い合って野菜の準備をしていました。



④山口久子さん(大正12年生まれ/子ども時代は生野町奥銀谷→神崎郡神河町南小田在住)の話(2004年9月調査)
———生野は田畑が少なく野菜は作らないので、七夕飾りをするのに笹竹も野菜も町で買っていました。茄子も胡瓜も西瓜もみんなです。飾りを準備するのは8月6日。短冊を吊るした笹竹を庭に面した軒下に2本立てて、その2本の間に竹か苧がらを2段に渡しました。上の段には紙の着物をかけて飾っていました。確か、「ヒナガタ」と呼んでいました。男女2対ぐらい。ヒナガタを切るのは女の子の係でした。首のところからツンと三角形に顔を尖らせて帯もしめます。色紙の色や袖の長さなどで男女を区別していました。下の段には買ってきた野菜を対にして、これらもかけて飾っていました。男の子は市川でメンコ(メダカ)を取ってきて金魚鉢に入れて供える係でした。
8月7日の朝、あっちの家からこっちの家から笹飾りを市川の流し口へ運び、飾りものはみんな流してしまいました。ヒナガタは残しておくこともあったように思います。
———神河町南小田へお嫁にきたあとは、近隣の人たちがハツモンの野菜をそれぞれ対にして竹につるし飾ってるのと合体したような七夕飾りを立てていました。上の段に「ヒナガタ」、下の段に茄子や胡瓜や、まだ青い柿やホオズキなんかもつるしましたよ。

⑤谷藤眞佐恵さん(昭和7年生まれ/生野町口銀谷生まれ→同町小野在住)の話(2006年7月調査)
———私の子ども時代ですから、戦争色が国を覆い始める頃です。口銀谷の家々では8月6日になると2本の笹飾りを用意していました。近くの竹藪から父親が切り出してきた笹竹に、私たちは願い事を書いた短冊や切り紙細工などを吊るして飾りました。2本の笹竹を庭に面した縁側に立てると、その間に苧がらを2段に渡して「七夕さん」を掛けます。母が作ってくれる「七夕さん」は袖や帯のしめ方に男女の区別があり、半紙よりふた周りほど大きなものでした。七夕飾りをほどこした縁側には経机を出し、その上に野菜などを供えるのが常でした。8月7日の朝、どこの家も笹飾りを市川へ持って行って流していました。


⑥神橋千秋さん(昭和15年生まれ/養父市八鹿町生まれ~生野町口銀谷在住)の話 (2003年10月調査)
———昭和30年代後半に養父市八鹿町から生野へ嫁いで来てからは、当時この町では有名だった「島田和裁塾」(生野町鍛冶屋町通)に通っていました。和裁塾の塾長・島田治栄さん(大正初年生まれ)は、家政全体に秀でた女性で、近隣の若い主婦たちは、冠婚葬祭のこと、家政上の様々な儀礼ごとについて、よくアドバイスをもらいに出かけていました。塾の中でも、ただ裁縫を習うというにとどまらず、春夏秋冬、主婦がどのような心構えで家政を行なっていけばよいかを身をもって示しておられたので、8月6日、年によっては7月6日の七夕には、塾生が集まって生野らしい七夕飾りを行なっていました。庭に面した縁側の軒下に笹竹を2本立てると、「お裁縫が上達しますように」などと、それぞれが短冊に願い事を書き、色紙を切って投網や輪つなぎの飾り物を作ると、思い思いに笹に吊るします。「七夕さん」の数が多いので、2本の笹竹の間には苧がらではなく、竹を渡して、そこに塾生それぞれに手作りした「七夕さん」を通して飾りました。差し渡した竹の両端に船の切り紙細工をかけて七夕飾りが完成すると、それはもう、綺麗なものだなあと見とれるような感じがありました。


———8月7日、あるいは7月7日の午前中には塾生が縁側に集まり、七夕飾りの下には長机を置いて七夕棚を作ります。茄子の牛、それに西瓜、サツマイモ、ホオズキなどを団子とともに供えます。塾長と塾生が集まって歓談した後に市川のトロッコ道に沿って流れる市川へ流しにいきました。昭和40年代になって流すことが禁止されてからはそんなこともなくなりましたが・・・。塾生は当初、主婦になったばかりの若い人でしたが、だんだん中年女性が中心となり、島田和裁塾で七夕まつりをした最後の年、昭和63年には10人ほどの集いでした。

———我が家でも、昭和40~50年代、島田和裁塾で習ったとおりの七夕飾りを立てていました。8月6日の朝、あらかじめ選んでおいた笹竹を、山すその竹藪から2本切りだし、軒下に立て飾りました。娘(昭和41年生)と一緒に、色紙を切って輪つなぎや投網、短冊などを作って笹竹に飾り、1対、あるいは2対ほどの「七夕さん」を作りました。当時、生野町の但陽信用金庫が、夏休みが始まる頃に、子どもの夏休みの工作用として、新聞折り込み広告を兼ねて、千代紙を配布していました(表が千代紙で裏が広告)。それらを利用して「七夕さん」を作りました。苧殻は、お盆が近づくと八百屋さんで売られるのですが(今でもそうです)、それを買ってきて七夕さんを通すと、2本の笹飾りの間に渡し、苧がらの両端には切り紙細工の船を1対かけて飾ります。苧殻は、皮をむいた麻の茎で2m弱ほどの長さがあります。口銀谷では、昔から、他の切り紙の飾り物や笹は市川に流しても、七夕飾りに使用した苧殻だけは残しておいて、半分にわけ、半分はさらに細かくして、盆の迎え火に、残りの半分は送り火に利用したものです。この風習はまだ今でも残っていますから、お盆頃には家々が門先で、苧殻の火を焚く様子が見られます。―――


神橋さんがお住まいの口銀谷4区公民館での七夕飾り(2004年7月)
●いかがでしょうか。こころ豊かな七夕まつりの風情がよみがえってくるようです。「七夕さん」(あるいは「ヒナガタ」)呼ばれる紙衣は、古老たちの話によると、昭和初期の頃、明治後期生まれの両親や明治初年生まれの祖父母の手によって作り伝えられており、明治時代にも同じ形態の七夕飾りが行なわれていたことが類推できます。太平洋戦争が激しさをます昭和10年代後半になると、食物はもちろん、紙という素材も貴重品となり、七夕飾りが中止された時期もありました。戦後、時代が落ち着きを取り戻す昭和20年代中頃になって、再び、生野の家々には昔ながらの七夕飾りが戻ってくる頃には、笹竹に短冊以外に投網や輪つなぎ、提灯などの切り紙細工が加わるようになったようです。小型の「七夕さん」が作られて短冊や他の切り紙細工とともに笹に飾られることも時にはあったと伺いました。———以上、20年ほど前の聞き取りですが、すでにこの世を去られた方々が多く、皆さんからお伺いしたお話は、時代が下るにつれ、さらに意味を深めていくものではないかと思います。
●当館所蔵の戦前に生野町で作られ飾られた「七夕さん」のコレクションは、まもなく本サイトの企画展コーナーにて「デジタルコレクション14」として公開いたしますので、合わせてご覧いただければ幸いです。
(学芸員・尾崎織女)
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