ブログ
blog七夕紙衣(七夕に飾る紙製の着物)のこと
★兵庫県姫路市の妻鹿(めが)、白浜町、八家(やか)、東山、的形(まとがた)町、大塩町を経て、高砂市の曽根町に至る播磨灘沿岸域に「七夕さんの着物」と呼ばれる紙衣が伝承されているのはご存じでしょうか。長方形の色紙や千代紙を二つ折にして袖や身ごろを切り出し、襟元はV字に切り込んで形を整えると、色を違えた帯を結んで完成させます。家庭によって着物の大きさや作り方の細部は異なりますが、着物の色、袖の長さ、帯の結び方などに男女の違いを意識したものが目立ちます。8月6日、子どもの居る家では、軒下に立てた2本の笹竹飾りの間に竹を渡すと、そこに数枚の「七夕さんの着物」を吊るして飾り、下に小机を置いて初物の野菜や七夕のご馳走を供えます。これらの飾りは7日の朝には外され、昭和30年頃までは川や澪に流されていました。「七夕さんの着物」をたくさん飾ると、祝われた子どもが一生、着るものに不自由しないと言い伝えられています。
★この「七夕さんの着物」を全国に広く知らせたのは、当館の井上館長です。昭和42年8月6日の夕刻、館長は当時、車掌として勤務していた山陽電車の車窓から、八家駅周辺の家々で行われている七夕飾りの中に紙人形のようなものを見つけました。そこで、翌日から周辺地域を調査し、市川が播磨灘に注ぐ東岸地域(昔から塩田で栄えた町々です)に伝承されてきた「七夕さんの着物」を数多く収集したのです。
★また、日本玩具博物館は、昭和63年夏、銀山の町として有名な朝来郡生野町(現在は朝来市)の旧家の土蔵に眠っていた明治時代製と思われる6対と4枚の七夕紙衣を入手し、これらによって市川が水源を発する町にも「七夕さん」と呼ばれる紙衣が存在したことが明らかになりました。生野町では、2本の笹飾りの間に苧がら(皮をむいた麻の茎)を通し、そこに2対ほどの「七夕さん」を吊るし飾るという、播磨灘沿岸域とほぼ同じ構図の七夕飾りが行われていました。
★3年ほど前、市川の上流と下流に伝承される七夕紙衣をあらためて見直してみたいと思い立ち、昭和60年代に行われた先行調査を基盤にして、流域に暮らす多くの伝承者への聞き取りを始めました。その中で、市川水系の町々、つまり神崎郡大河内町、市川町、神崎町、福崎町などにも七夕紙衣が存在し、かつて、播州一帯の農村部に見られた「初物の野菜を吊るす飾り」に、播磨灘東岸域や生野町に見られた「紙衣を吊るす飾り」が合体したような七夕飾りを行う地区が点在していたことが徐々にわかってきました。地域の古老が語る昔の七夕は、家族や地域社会の連帯の中で丁寧に祝われ、飾りは季節感に満ちて合理性があり、美意識がとても繊細なことに驚かされます。お菓子をもらいながら、嬉しそうに家々の七夕飾りの前を走りまわる昔の子ども達の様子も浮かび上がってきます。ただ、戦前の七夕飾りをよく知る方々のほとんどは大正生まれ。既に80代後半から90代になっておられることから、聞き取り調査は急がれます。
★七夕に紙衣を飾る民間の風習は、江戸時代前期から行われていた七夕様に「着物をお貸しする習俗」に起源があるようです。これは、天の二星(特に織姫)のために、袖を通していない着物を飾り、将来にわたって衣装に恵まれることを願うものです。布製の着物は、やがて紙製の着物に代替されるようになり、七夕紙衣は、大都市部から地方へと広まっていったようです。実際に、松本をはじめ、仙台や山梨、鹿児島などにも紙衣や着物を着せた人形が伝わっています。
★こうした七夕の習俗を全国的な視野で眺めてみようと、この夏、松本市立博物館では「七夕と人形」と題する特別展が開かれます。長野県松本市は七夕人形や七夕紙衣のメッカともいえる町で、流し雛形式、ひとがた形式、着物掛け形式、紙雛形式など、様々な様式の七夕飾りが残されています。この展覧会は、同館が何年もかけて調査した内容を集約し、また全国各地の七夕の人形や紙衣を飾る習俗が紹介されますが、日本玩具博物館も、市川流域に伝承される資料について出品協力しています。今夏は、松本市立博物館だけでなく、松本城周辺の博物館、商店街筋でも昔ながらの七夕飾りを数多く拝見できますので、ぜひお訪ね下さい。
★それから、今、お住いの地域で、また子ども時代に暮らされた地域で、七夕に人形や紙衣を飾る習俗があったと記憶されている方がいらっしゃいましたら、当館までお知らせ下さいますようお願い致します。
(学芸員・尾崎織女)
バックナンバー
年度別のブログ一覧をご覧いただけます。