「雛まつり~まちの雛・ふるさとの雛~」 | 日本玩具博物館

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特別展

春の特別展 「雛まつり~まちの雛・ふるさとの雛~」

会期
2026年2月7日(土) 2026年3月31日(火)
会場
6号館&ランプの家

毎春、日本玩具博物館で開催される特別展「雛まつり」は、当館の500組を超える雛人形コレクションの中から、50~100組の資料を取り出し、雛人形の時代による形態の移り変わりや飾り方の違い、また地域による特色などを切り口に桃の節句をめぐる人形文化を紹介する試みです。今春は、江戸時代後期から明治・大正時代に、江戸(東京)や京阪(関西)の大都市部の町家で飾られていた雛飾りを❝まちの雛❞として、時代を追って展示します。加えて、地方の町々で愛された土雛や張り子雛、押絵雛などを❝ふるさとの雛❞として焦点を当て、祖先が愛し育んだ雛をめぐる文化の多様性を紹介します。

天保年間(1830-44)町家の雛飾りの様子 (「風流古今十二月内 弥生」 香蝶楼国貞/三代歌川豊国画)

展示総数 約150組


<第一章*まちの雛>

第一章では、江戸時代後期から明治時代にかけて、大都市部で飾られた雛人形と雛道具の姿を、時代を追ってご紹介します。

第一節*江戸時代のお雛さま

雛人形につながる人形の起源は、遠く平安時代の貴族社会で日常的に行われていた❝ひゐな遊び❞(「ひゐな」と呼ばれる人形を用いた遊び)にさかのぼりますが、3月3日の上巳(じょうし)の節供(句)に合わせて雛人形や雛道具を贈ったり、また、この日に女性たちがその人形で遊んだり、飾り付けたりするようになったのは江戸時代に入ってからのことです。
衣装を着せた座り姿の雛人形は、江戸時代中頃から次第に豪華なものとなり、京都と江戸を中心に、雛を取り巻く産業も発達していきました。雛人形は、その様式によって、元禄雛(げんろくびな)、寛永雛(かんえいびな)、享保雛(きょうほうぼな)、有職雛(ゆうそくびな)、次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)、古今雛(こきんびな)などの呼び名がありますが、いずれも毛氈(もうせん)の上に、内裏雛を並べ、背後に屏風を立てた❝親王飾り(屏風飾り)❞が基本になっていました。

江戸後期(18世紀前半から中盤にかけて)京都を中心に作られていた「享保雛」

雛段は、宝暦・明和(1751~72)頃には2~3段、安永(1772~81)頃には4~5段、さらに江戸後期には7~8段もの豪華な❝段飾り❞も見られるようになります。

内裏雛を中心に、三人官女が添えられ、天明(1782~89)頃には、太鼓や笛を奏でる五人囃子も登場します。上方起源と思われる随身(左大臣・右大臣)や桜・橘の二樹、また諸道具類も整えられて、江戸末期には富裕な階層においては、今日以上に豪華な段飾りが行われていました。一方、一般の町家では箪笥などを利用した素朴な段飾りが多かったようです。

「源氏十二ヶ月之内弥生」 安政年間ごろ 三代歌川豊国

このコーナーでは、江戸時代後期の「享保雛」や「古今雛」を❝親王飾り(屏風飾り)❞や2~3段の❝段飾り❞を通してご紹介します。

江戸後期(18世紀後半)江戸で創作された「古今雛」(桃柳軒玉山作)

第二節*明治時代のお雛さま

今日のように、価格によって製品が画一化し、人形と道具が一式揃えで頒布されるようになるのは明治時代末期から大正時代にかけてのことです。それまでは、人形屋や道具屋から気に入った品を買い集め、家ごとに個性的な飾りを行っていました。例えば、祖母の代の雛飾りに嫁いできた嫁の雛を合わせ、やがて女児が誕生すると流行りの雛道具や添え人形を買い足したりして、製作年代の異なる人形や道具が同じ雛段に飾られていました。

明治時代の雛まつり(「五節句之内花月」河鍋暁翠画/明治25年)


明治時代、都市部で飾られていた雛人形は比較的大型で豪壮な印象があり、家の権勢を誇示するような堂々とした構えの作品が目立ちます。また、雛人形の様式においても飾り方においても、江戸時代からの伝統を引き継ぎ、関西(京阪)地方と関東(江戸)地方には違いがみられました。

このコーナーでは、明治時代に町家で飾られた古今雛の名品をご覧いただきます。


第三節*京阪地方の御殿飾り

江戸を中心に❝段飾り❞が発展する一方、上方では❝御殿飾り(源氏枠飾りを含む)❞が優勢でした。京都では、内裏雛を飾る館のことを御殿といいますが、その中に一対の雛を置く形式を❝御殿飾り❞と呼びました。京阪を中心に、この様式の雛飾りが登場するのは江戸時代後期のことです。この頃に、喜田川守貞は『守貞謾稿』の中で京阪と江戸の雛飾りの違いを次のように記しています。
 「……京阪の雛遊びは、二段のほどの段に緋毛氈(ひもうせん)をかけ、上段には 幅一尺五寸六寸、高さもほぼ同じ位の屋根のない御殿の形を据え、殿中には夫婦一対の小雛を置き、階下の左右に随身と桜橘の二樹を並べて飾るのが普通である。…江戸では段を七、八段にして上段に夫婦雛を置く。しかし御殿の形は用いず、雛屏風を立廻して一対の雛を飾り、下段には官女、五人囃子を置く……」と。
江戸時代後期においては、江戸の段飾りに対して、京阪の御殿飾りが一般的であったことがわかります。また、屋根のある御殿に先んじて、屋根のない御殿を用いた❝源氏枠飾り❞が行われていたこともわかります。御殿飾りには、台所道具や身近な生活道具類がともなっており、女児の遊び心をくすぐると同時に、御殿飾りは家庭教育の教材としての役割も担っていました。

大正11年の檜皮葺き御殿飾り雛(京都・大木平蔵調製)
京阪地方の雛飾りに添えられた白木の勝手道具(明治時代後期製)

このコーナーには、明治・大正時代から昭和初期にかけて京阪地方の町家で飾られた豪華な御殿飾り雛とクラシックな源氏枠飾り雛を展示します。



<第二章*ふるさとの雛>

日本各地の裕福な町々では、江戸や京阪で飾られる雛人形に影響を受けながらも、幕末頃から地域独自の雛飾りを発展させていきます。江戸や京阪の人形屋から安価な頭を取り寄せて、地元で衣装を着付けたものが飾られ、また、城下町を中心に押絵の人形が雛飾りとして歓迎された時代もありました。一方、農村部では、粘土をこねて焼成する土雛が雛段を賑やかに彩りました。
第二章では、幕末期に日本各地の農村部などで作られ始めた土雛や地方の都市部で製作された押絵雛を中心に展示します。

第一節*ふるさとの土雛飾りを中心に

江戸時代後期、衣装雛が大都市部の裕福な人々のものとして発展を遂げて行く一方、地方の町々では、身近にある安価な材料を用い、自給自足的に雛人形が作られました。反故の紙を利用した張り子製、家具類製作時にでる木屑に糊を混ぜた練り物製なども知られていますが、全国の農村部では、身近に得られる良質の粘土を熟泥して型抜きで❝土雛❞が量産され、素朴ながらに華やかな色彩が多くの庶民の歓迎を受けました。雛飾りが画一化する前の個性的な人形で、日本の雛人形史上に魅力を放っています。
このコーナーでは、全国の郷土人形の産地に遺された土雛飾りを中心に紹介します。

東北地方の雛・・・江戸時代末期、農家の副業として奨励された土人形作りは、東北地方では、宮城県仙台の堤人形を中心として各地に豊かな花を咲かせました。秋田県八橋や山形県酒田の土雛は、雪国に春を告げるような明るい色彩がまぶしく、福島県三春の張 子雛は、享保雛風の動的な姿態とユニークな表情が笑顔を誘います。

関東・中部東海地方の雛・・・江戸後期の川柳に「村の嫁今戸のでくで雛祭」とあるとおり、江戸付近の農村では当時、浅草・今戸焼きの土雛が盛んに飾られていたようです。埼玉県鴻巣では木屑を糊でといた練り物製の雛、千葉県芝原では土玉の入ったイシッコロビナなどが作られました。土人形は型抜きをして製作されるため、同一文化圏には同じ型の土人形がよく見られます。岐阜県や愛知県の各地には、大きさや細部は異なりますが、江戸型古今雛の形態によく似た形の土雛が多数残されています。

近畿・中国・九州地方の雛・・・約四百年の伝統をもつ京都府の伏見人形は、全国の土人形に影響を与えたといわれています。江戸時代末期の全盛期には窯元は五十余軒、種類は数百をこえ、土雛なども京土産として、西日本一帯へ流れていました。滋賀県小幡や兵庫県稲畑、葛畑などの土雛は伏見の系統をひくものです。中国地方では、島根県長浜には京阪古今雛型の優美な土雛が、広島県三次には江戸型古今雛型の土雛が伝わり、後者は、九州地方の福岡県古博多や津屋崎、熊本県天草や鹿児島県帖佐などとも共通する形態です。


第二節*ふるさとの押絵雛

元絵を厚紙に映した型紙を部分ごとに切り取り、そこに綿をのせて布で包んだ部品を組み合わせて作る「押絵」の人形は、江戸時代後期には、都市部の武家や町家の女性たちに親しまれていました。それが、明治時代に入ると、地方の城下町にも広がりをみせ、女性たちが教養として、また暮らしの楽しみとして、様々な押絵の人形が作られるようになります。 明治・大正時代、豪華な段飾りや御殿飾りが届かない地方では、昔話や民話、歌舞伎などを題材に押絵が作られ、初節句の祝いとして贈り合う風習も見られました。

このコーナー(ランプの家)では、大分県日田市の「おきあげ雛」、岩手県奥州市水沢の「くくり雛」、姫路の「押絵雛」など、各地の押絵雛飾りを紹介します。



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