日本玩具博物館 - Japan Toy Musuem -

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今月のおもちゃ

Toys of this month
2021年2月

「琉球張子・白澤(ハクタク)」

  • 昭和初期
  • 日本・沖縄県那覇市/紙

新型コロナウィルス感染症の世界的拡大のなか、昨年は、病魔除けの妖怪「アマビエ(アマビコ)」が話題となり、東北地方の木地玩具の産地などでも、アマビエを題材にした人形や玩具が数多く誕生しました。――科学に基づく合理精神に支えられ、医療が発達した現代にあっても、疫病の流行に際して、私たちは、病魔よけのマスコットを作り、手元に置いて、神頼み、心頼みとする感性を根強く持ち続けているようです。


江戸時代後期から明治時代にかけて、庶民たちが愛した玩具の姿形を受け継ぐ郷土玩具の世界を尋ねれば、私たちの祖先が大切にしていた病魔よけの造形に出合えます。そのひとつに、沖縄県那覇市に伝えられた琉球張子の「白澤(ハクタク)」があります。写真は、旧尾崎清次コレクションのなかの一点で、昭和初期の作。

琉球張子・白澤(昭和初期頃の作)——正面から

白澤は、牛のような体と人面をもつ中国渡来の霊獣で、人語を解し、天地開闢以来のすべてを知っていると伝わります。顔面には眼が三つ、左右の胴体にも眼が三つずつ、合計九つの眼で邪気を払い、病魔を除ける魔力が具わっていると信じられてきました。

琉球張り子・白澤(昭和初期頃の作)——側面にも三つ目

琉球王朝時代、天才絵師といわれた城間清豊(1614-1644/雅号=自了)が描いた絵画のなかに「白澤之図」があり、顔は白ひげを生やした三つ目の老人、全身が白い四つ足の獣が厳かに描かれています。戦前の琉球古典焼人形にも白澤を表したものが見られ、沖縄の人々に古くから親しまれてきたものと想われます。

沖縄では昭和初期頃まで、旧暦5月4日の前後には、「ユッカヌヒー」という玩具市が立ちました。那覇市街の道路や脇道には戸板に所狭しと玩具を並べた露店が並び、子どもたちは年に一度の賑やかな玩具市に胸を躍らせ、親もまた我が子の健やかな成長を祈って玩具を買い与えたことでしょう。琉球張子の作者は、市内の若狭町や湧田の崎に居住し、明治末期頃には、「島袋、輿儀、翁長、岸本、仲里、小橋川、友寄などの家々が揃って盛んに作っていたのが、昭和初期になると友寄家以外、ほとんどが廃業してしまった」と尾崎清次氏は『琉球玩具図譜』(※注)に記しています。――とすれは、この白澤は友寄家の作でしょうか。代赭色に塗られた張子の白澤は、全身が白い城間清豊の「白澤之図」とはイメージが異なりますが、ユーモラスな表情には魔物の力を吸い取ってしまうような不思議な穏やかさが漂っています。

(※注)尾崎氏は、昭和7(1932)年に沖縄を訪問し、調査旅行によって得た成果を『琉球玩具図譜』(昭和11年・笠原小児保健研究所刊)に著しています。『琉球玩具図譜』のなかに白澤は収められていません。

昨秋、いつもお世話になり、様々なことをご教示いただいている方から幕末期のコレラ大流行について記した文献『安政午秋 頃痢流行記』を見せていただく機会を得ました。日本で初めてコレラ(頃痢)の感染が確認されたのは文政5(1822)年のこと。二度目に流行した安政5(1858)年には、長崎へ上陸したコレラがみるみるうちに京阪、さらに江戸へと至り、たった数ヶ月のうちに十万人以上が死亡したと伝えられています。『安政午秋 頃痢流行記』の奥付には「白澤之図」が掲載され、この絵を枕に添えて眠ると、悪夢をみず、邪気を払い疫病を除いてくれると記されています。


琉球張子の白澤は、4号館1階の常設展「日本の郷土玩具」の沖縄県コーナーに展示しています。

学芸員・尾崎織女)