日本のクリスマス産業史に光を当てる活動のこと・その2 | 日本玩具博物館

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学芸室から 2026.09.20

日本のクリスマス産業史に光を当てる活動のこと・その2

●先に本ブログ・その1でご報告しましたように、クリスマスオーナメント「経木モール」の産地は、明治から大正時代にかけて、兵庫県氷上郡柏原町(現・丹波市柏原町)にあり、柏原で作られたモールは、神戸の貿易会社に向けて鉄道(阪鶴鉄道)で輸送され、神戸港から主にアメリカ合衆国へと送られていました。ところが大正末期から昭和前期に入ると、その産地は岡山県高梁市を中心とする中国地方へと移り変わっていきます。この背景には「浦田百太郎」という人物の大活躍があるのですが、このことを、❝日本のクリスマス産業史に光を当てる活動❞(サントリー文化財団研究助成)代表の相澤孝司先生が、素晴らしい情報収集力と探究力によって明らかにしてくださいました。

*2026年7月27日、クリスマス産業界の皆様とともに神戸で開催した研究会の様子

●相澤先生が故・浦田百太郎氏の孫にあたるご婦人への聞き取り調査などによって示されたことのあらましは以下です。――大正14(1925)年、神戸市在住の浦田百太郎氏が、経木モールを作るための自動製造機を発明し(実用新案出願を行っています)、その機械による製造を試み始めます。この機械は、従来のような材木を薄く削る手間と織る手間が不要になるため、格段に生産効率があがります。浦田氏はこの製造機をもって「東洋木工所」を創業し、自らの故郷である高梁市をはじめ、岡山県内ばかりか島根県にも姉妹工場を広げていきます。それらの工場で製造された膨大な量の経木モールは、神戸の貿易会社へと運ばれ、神戸港からアメリカ合衆国などに向けて海を渡っていました。他方、東洋木工所の生産力優勢にともない、柏原町での手削り、手織りによる経木モール製造は退潮していったのです。――このような歩みは、相澤先生のご研究以前には知られていなかったことです。
●神戸のクリスマス産業界各社の先代社長は、それぞれへの聞き取り調査の席で、「高度経済成長期ころまでは、主に高梁から経木モールを送ってもらっていた」と懐かしそうに話してくださっていて、高梁市を中心とする経木モール生産が昭和30年代から40年ころまで続いていたことがわかります。


●ところで、横溝正史の推理小説『悪魔の手毬唄』をお読みになられたことがあるでしょうか。この小説には、岡山と兵庫の県境にある寒村、鬼首村で起きた凄惨な連続殺人事件が描かれていますが、その事件の発端となる出来事のなかに「経木モール」が登場してきます。―――満州事変が起こった昭和6(1931)年、貿易会社の代理人を名乗る謎の人物、恩田幾三が神戸から鬼首村にやってきます。そして恩田は、不況にあえぐ村の副業としてクリスマス用の「経木モール」作りを提案するのです。その内容とは・・・①恩田は鬼首村の村人にモール製造用の機械を貸与し、材料を提供する ➁村人は農作業の合間に経木モールを作り、恩田から労働対価を得る ③資金が積み上がったら、村人は経木モール製造機を購入する・・・というもの。皆、恩田の申し出に飛びつき、貸与された機械を用いて懸命に経木モール作りに取り組みます。村人たちは、またたく間に機械を購入できるぐらいの収入を得て、昭和7(1932)年秋には製造機を入手しました。ところが、さてこれから!という段に至って、世界恐慌、アメリカ合衆国のニューディール政策の影響で輸出業が大打撃を受け、神戸の貿易会社が事業から撤退。村をあげての副業、経木モール製造はあっという間に頓挫してしまった、というのです。

●神戸在住で、岡山に両親の故郷がある横溝は、「経木モール」製造輸出における岡山と神戸とのつながりや当時の歴史的背景を小説に取り入れたのでしょう。神戸から岡山へ経木モール製造業をもたらした浦田百太郎の活躍も横溝は知っていたのでしょうか。昭和52(1977)年の映画「悪魔の手毬歌」(市川崑監督)には、恩田がモール製作機を手押し車につんで村へやってくる回想シーンが実写化されていて興味深いです。

●以上のようなことをふまえ、昨日は、相澤先生のアレンジによって、岡山県備中地方における明治・大正時代の殖産興業を担い、日本からの製造輸出品として突出していた「麦稈真)田(麦わら編みの紐)」と「花筵(イ草編み)」について聴取させていただくため、浅口市立鴨方図書館・郷土資料館と倉敷市立磯崎眠亀記念館を訪問しました。麦(大麦の一種・裸麦)もイ草も、備中において古くから盛んに栽培され、それらの加工品は、暮らしの様々な場面で用いられたてきたものです。

●―――明治前期から大正時代、鴨方町をはじめ、寄島町や金光町(三つが合併して浅口市になりました)などでは、農家の副業として「麦稈真田」が盛んに製作され、神戸港から欧米へと輸出されていました。当時、カンカン帽(Boater)が大流行していたこともあって、やわらかで手仕事が丁寧な日本製麦稈真田は、帽子をつくる格好の素材として歓迎を受け、資料館によると、大正初年には岡山県全体で一年に1,900万反もが生産されていたということです。明治24(1891)年、山陽本線鴨方駅開設以降、製品は駅周辺の倉庫に集められ、鉄道で神戸へと輸送されます。鴨方駅にて大量の品を扱っていたからでしょう。金銭取引も行われたことから「鴨方倉庫銀行」が設置され、これがのちの中国銀行に発展したと伺いました。

●一方、畳表に欠かせないイ草細工のひとつ、花筵(かえん/はなむしろ)のなかで、磯崎眠亀(いそざきみんき/1834-1908)が、苦心の末、明治11(1878)に作り上げた繊細華麗な「錦莞莚(きんかんえん)」は、アジアを感じさせるデザインをもとに、眠亀が開発した特製織機によって生み出される高級品です。明治14(1881)年には、イギリス人の目にとまり、やがてドイツやアメリカなどへ向けて、神戸港からの輸出が始まります。明治中期から後期、敷物としてはもちろんタペストリーとしても、欧米の人々に大いに愛されました。多くの外国人バイヤーが、倉敷市茶屋町にある磯崎製筵所を行き交った明治30年代、「備中茶屋町今神戸」——茶屋町がまるで神戸のようだ——と評されたそうです。当時、≪日本十代輸出品目≫に名を連ねた花筵・錦莞莚でしたが、自国のカーペット産業を守るためのアメリカ関税政策の煽りを受け、世界恐慌が吹き荒れる昭和9(1934)年、磯崎製筵所は閉鎖を余儀なくされたのでした。

    (学芸員・尾崎織女)

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