日本玩具博物館 - Japan Toy Musuem -

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展示・イベント案内 exhibition

特別展

春の特別展 「雛まつり~京阪の雛飾り~」

会期
2016年2月6日(土) 2016年4月17日(日)
会場
6号館

現在、私達は、五段あるいは七段に毛氈を敷き、屏風を立て廻して飾りつけるものが昔からのただ一つの雛の伝統だと思いがちですが、昭和初期頃までは関東と関西の違いのみならず、城下町や地方都市、農村部など、土地によって様々に異なる雛の世界がありました。春の恒例となった雛人形展は、500組をこえる日本玩具博物館の雛人形コレクションの中から、様々な時代や地域の雛人形を取り出して展示し、雛飾りの多様な世界を紹介する試みです。今春は、江戸時代後期から明治・大正時代に京都や大阪といった大都市部で飾られた豪華な雛飾りを展示し、全国に影響を及ぼした京阪地方の町雛の様式をとりあげます。

雛飾りに人形や諸道具を飾るための雛段が見られるようになったのは江戸時代のこと。初期の頃は、毛氈などの上に紙雛と内裏雛だけを並べ、背後に屏風を立てた平面的な飾り方で、調度類も数少なく、簡素かつ自由なものでした。雛祭りが盛んになるにつれて、雛人形や添え飾る人形、諸道具の類も賑やかになり、雛段の数も次第に増えていきます。安永年間(1772~81)には4~5段、天保年間(1830~44)頃には、富裕な町家の十畳座敷いっぱいを使うような贅を尽くした雛段も登場してきます。

そうして江戸を中心に「段飾り」が発展する一方、上方では「御殿飾り」が優勢でした。建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形を添え飾るもので、御殿を京の御所に見立てたところからか、桜・橘の二樹も登場してきます。御殿飾りは明治・大正時代を通じて京阪神間で人気があり、戦後には広く西日本一帯で流行しましたが、昭和30年代中頃には百貨店や人形店などが頒布する一式揃えの段飾り雛に押されて姿を消していきました。

第一章 江戸時代のお雛さま

 桃の節句に雛人形が登場するのは江戸時代に入ってからのこと。雛人形作りの技術はその始め、京都で発達をみましたが、やがて、江戸でも豪華な雛人形が作られるようになり、京都・大阪・江戸を中心に雛を取り巻く産業も発達していきました。その様式によって、元禄雛(げんろくびな)、寛永雛(かんえいびな)、享保雛(きょうほうぼな)、有職雛(ゆうそくびな)、次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)、古今雛(こきんびな)などの呼び名がありますが、いずれも毛せんの上に、内裏雛を並べ、背後に屏風を立てた「屏風飾り」が基本になっていました。時代が下るにつれて雛段が組まれるようになり、江戸後期になると、江戸では7~8段に雛人形や諸道具を並べる段飾りも見られるようになります。内裏雛を中心に、三人官女が添えられ、天明(1782~89)頃には、太鼓や笛を奏でる五人囃子も登場します。一方、京都や大阪では、段飾りよりも、御殿の中に雛人形を飾る様式が好まれていました。

 このゾーンでは、江戸時代後期、京都で発達した「享保雛」、江戸で生まれた「古今雛」、その影響を受けて京阪で作られるようになった「京阪型の古今雛」の様式を “屏風飾り”や2~3段の“段飾り”を通してご紹介します。

享保雛

 享保雛(きょうほうびな)は、面長で、目は切れ長、少し口を開けて立体的な表情が特徴です。装束には、金襴(きんらん)、錦などを用い、男雛は両袖を張った形、女雛は五衣、唐衣姿で表されます。このような様式の雛人形は、江戸時代の享保年間(1716~36)頃に流行したものと後世の人々は考え、「享保雛」の名で呼び習わされてきました。明治時代初期の頃まで作られており、比較的大型のものが見られます。

古今雛

 江戸時代の安永年間(1772~80)頃、江戸では、京阪風を脱した新型雛が登場して人々に愛好されていました。やがて根付師でもあった名工・原舟月は、江戸好みの雛人形を作って脚光をあびます。人形の顔は面長、両眼には硝子玉や水晶玉をはめ込んで、活き活きとした表情をもっています。衣装には金糸や色糸で華やかな縫い取り(刺繍)がほどこされ、袖には紅綸子が用いられています。こうした様式は「古今雛(こきんびな)」と称され、現在に続く雛人形の原型と考えられます。

京阪地方の古今雛

 寛政の頃(1789~1801)、江戸で「古今雛」の様式が流行するようになると、京阪地方でもその影響を受け、「享保雛」の様式とは異なる雛人形が作られるようになります。けれども、京阪地方で作られ始めた古今雛は、人形の頭も衣装の様子も、また天冠などの飾りも、江戸型とは少し違っていました。

 江戸時代の京阪型古今雛は、従来の描き目で、公家風の静かな表情が特徴的。衣装には緋や茜色、常磐色など明るい色調が好まれました。檜扇を広げてゆったりと座す女雛の姿を江戸型と比べていただくとその違いがよくわかります。

江戸時代の古今雛~江戸型と京阪型~

 江戸時代や明治時代の「古今雛」には、地域によって顔立ちや衣装の着せ方に違いが見られます。特に江戸の文化を表現する「江戸型」の雛人形と上方文化を表現する「京阪型」の雛人形とは様子が異なりました。引き目鉤鼻で静かな印象の「京阪型」に対して、「江戸型」は、目も口も大きく開いて華やかな表情をもっています。江戸型の男雛は、動的に袖を張り、女雛は袂を低く膝元におさめて、袖の中に手を隠した姿で作られます。対して、京阪型の女雛は、袖から両手をのぞかせ、檜扇を広げた姿に作られます。地方都市で飾られた「古今雛」は、こうした江戸型や京阪型の雛人形の姿を真似ながら、独自の様式を発展させていきました。

江戸後期の古今雛・江戸風(左)と京阪風(右)

第二章 明治時代のお雛さま

 今日のように、価格によって製品が画一化し、人形と道具が一式揃えで頒布されるようになるのは明治時代末期から大正時代にかけてのことです。それまでは、人形師や道具屋から気に入った品を買い集め、家ごとに個性的な飾りを行っていました。例えば、祖母の代の雛飾りに嫁いできた嫁の雛を合わせ、やがて女児が誕生すると流行りの雛道具や添え人形を買い足したりして、製作年代の異なる人形や道具が同じ雛段に飾られていました。

 明治時代、都市部で飾られていた雛人形は比較的大型で豪壮な印象があり、家の権勢を誇示するような堂々とした構えの作品が目立ちます。また、雛人形の様式においても飾り方においても、江戸時代からの伝統を引き継ぎ、京阪(関西)地方と関東地方には違いがみられました。
このゾーンでは、明治時代の「古今雛」について、“江戸”と“京阪”の様式を比較しながらご覧いただきます。

明治時代の古今雛~江戸型と京阪型~

 明治時代に入っても、古今雛は、東京(関東地方)と京阪(関西地方)では人形の表情や衣装の形態、衣装の色調、天冠の様式などに違いが見られました。関東地方の衣装は、江戸紫や浅葱を中心とする“渋い“色調にまとめられているのに対し、関西地方では、緋や常盤色を中心とする明るく華やかな色調が好まれました。表情における大きな違いは、関東の古今雛は、仏像彫刻にみられる“玉眼”(水晶や硝子などをはめ込んだ目)の手法が用いられて、より写実的に表現されている点です。明治時代初期には、京阪においてもこの手法が採用され、従来の描き目から玉眼の雛人形が作られるようになりました。江戸の人形師・玉翁は、江戸型古今雛の様式を京へ伝えた名工として知られています。

第三章 京阪地方の雛飾り

 京都では、内裏雛を飾る館のことを御殿といいますが、その中に一対の雛を置く形式を「御殿飾り」と呼びました。京阪を中心に、この様式の雛飾りが登場するのは江戸時代後期のことです。この頃に、喜田川守貞は『守貞漫稿』の中で京阪と江戸の雛飾りの違いを次のように記しています。 

「……京阪の雛遊びは、二段のほどの段に緋毛氈(ひもうせん)をかけ、上段には 幅一尺五寸六寸、高さもほぼ同じ位の屋根のない御殿の形を据え、殿中には夫婦一対の小雛を置き、階下の左右に随身と桜橘の二樹を並べて飾るのが普通である。…江戸では段を七、八段にして上段に夫婦雛を置く。しかし御殿の形は用いず、雛屏風を立廻して一対の雛を飾り、段には官女、五人囃子を置く……」

 江戸時代の終わり、江戸の段飾りに対して、京阪では「御殿飾り」が一般的であったことがわかります。また、屋根のある御殿に先んじて、屋根のない御殿(「源氏枠飾り」でしょうか)が用いられていたこともわかります。
 こちらのゾーンでは、明治・大正時代から昭和初期にかけて京阪地方でみられた「御殿飾り」、「源氏枠飾り」、「段飾り」など、雛飾りの様式をご紹介します。

御殿飾り(大正期)

その京阪地方の御殿飾り

  江戸を中心に「段飾り」が発展する一方、上方では「御殿飾り」が優勢でした。建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形を添え飾るもので、御殿を京の御所に見立てたところからか、桜・橘の二樹も登場してきます。雛段には台所道具や身近な生活道具類が飾られ、女児の遊び心をくすぐると同時に家庭教育的な役割を担っていました。

 「ひゐな」が、江戸時代に入って、そのまま桃の節句の「雛人形」となり、 また、「ひゐな遊び」が直接「雛遊び」の世界につながるほど、歴史の流れは単純でないにしても、御所のお膝元で生まれた御殿飾り や、それと共に飾られる厨房の道具などの雛飾りの中に“遊び”の要素がふんだんにおり込まれていることには、貴族社会を支え続けた京阪地方の歴史性が反映しているかもしれません。

明治時代の御殿飾り

 御殿の中に雛人形を飾る様式は、江戸時代後期、京阪地方で愛されていましたが、続く明治時代もまた、屋根のない「源氏枠飾り」とともに、「御殿飾り」が関西の町家を中心に人気を誇っていたようです。

 江戸時代から明治時代にかけての御殿飾りには、館の奥に「内裏雛」を置き、内裏雛の傍にお仕えする「三人官女」、館の警護にあたる「随身」、庭の清掃や煮炊の仕事をする「仕丁」らが添え飾られました。御殿の中に飾ると、それぞれの人形たちの役割がよくわかります。一方、江戸町出身の「五人囃子」は、御殿の中にはまだ登場していません。五人囃子が演奏しているのは“能楽”。能楽は江戸幕府の式楽(公儀の儀式にもちいられる音楽)でしたから、貴族文化を受け継ぐ京都では、御殿の中にはふさわしくないと考えられたためでしょうか。時代が下るにつれ、町家で飾られる御殿は大型化し、また、国体意識の高まりとともに、京都御所に見まがう御殿も作られました。

明治末~大正時代の御殿飾り

 明治中期になると、大型化した御殿が段飾りの上段に置かれ、下段には、身近な勝手道具などとともに、江戸町出身の大名道具を模した豪華な蒔絵の諸道具もずらりと並べ飾れるようになります。さらに時代が下って明治末期から大正時代に入ると、それまで御殿の中にはあまり見られなかった「五人囃子」も登場し、京阪地方の御殿飾りはいっそう賑やかになりました。

 ここに展示する御殿飾り雛は、この頃の秀作で、御殿や雛人形、諸道具を収める木箱には、京都の人形司・大木平蔵(丸平)の商標が貼られています。分業体制をとる京都のこと、数多くの職人たちの技術の粋を集められた作品であり、大木平蔵(丸平)が調製するものは、当時から最高級品として定評がありました。

大正時代の御殿飾り①

大正11年檜皮葺の御殿飾り

 ヨーロッパを戦場とした第一次世界大戦(1917~18)は、世界経済に大きな変革をもたらしました。ヨーロッパ各国が戦争の打撃を受ける中、主戦場外にあった日本においては、商品輸出が急増し、空前の好景気を体験します。“大正バブル”と呼ばれるこの好景気は、大正4(1915)年頃から始まり、大正9(1920)年頃まで続きました。この大戦景気によって、特に関西(京阪神)地方の経済は活気づき、富裕な庶民層が誕生したと言われています。関西において、小さな家が一軒建つほどの金額をかけて豪壮な御殿飾りが作られたのも大正時代の大戦景気と関係がありそうです。

 またこの時代、都市部への人口集中が始まり、庶民層が百貨店で雛飾り一式を求めるようになります。住宅事情を反映して、小型で簡素な御殿飾りが作られるになるのもこの時代です。

大正時代の御殿飾り②

百貨店の御殿飾り

 明治末期には、関西地方の大都市にも百貨店が誕生し、大正時代に入ると、百貨店で販売される様式化された雛飾りが裕福な町家層に歓迎されました。“三越”や“高島屋”などで整えられた「五段飾り」「七段飾り」、そして「御殿飾り」が都市部に普及します。大型の雛飾りに加え、人口が密集する都会の町家むけにコンパクトなサイズの雛飾り一式も多く販売されました。祖母の雛飾りに母親の雛人形を加え、またその家に女児が誕生すると、そこに新たな人形や諸道具を足し飾る……そのように、それまでの雛飾りは“家”のもちものである要素も強かったのですが、この頃になると、誕生した女児のもちものとして一式売りの雛飾りを祝い贈る家庭も多くなりました。

 ここに展示する御殿飾り雛は、百貨店で購入されたもの。同じ御殿、同じ人形、同じ道具を揃えた雛飾り一式を、当館では数組所蔵しています。

その②*京阪地方の源氏枠飾り

  御殿の中の貴族たちの暮らしを再現するような雛飾りは京阪地方独自のもので、遠く、平安時代の姫君たちが行っていた“雛遊び(ひゐなあそび)”につながるものでしょうか。江戸時代、京阪地方で作られ始めた雛を飾る御殿は、最初は屋根のない形態であったようです。それはまるで「源氏物語絵巻」の“吹き抜き屋台”という構図にも似て、御殿の中の人形たち表情がよくわかり、明るい印象の雛飾りです。このような御殿が「源氏枠」と呼ばれる所以です。

 このゾーンでは、大正時代から昭和初期にかけて、京阪地方で飾られた比較的小型の源氏枠飾りをご紹介します。この頃を最後に源氏枠飾り雛は姿を消してしまいます。

大正から昭和初期の源氏枠飾り

 大正時代の源氏枠飾りは、御殿飾りと同様、江戸時代後期や明治時代に作られたものより簡素で、組み立ても容易なものへと移り変わっていきます。百貨店などでセット販売される源氏枠飾り雛は、雛人形を段飾りにも出来るように、屏風や雛台が付けられたものも見られます。展示品のような黒漆塗りで小型の落ち着いた雰囲気をもつ源氏枠飾りは、大正時代を経て、昭和初期頃まで京阪地方を中心に好んで飾られましたが、太平洋戦争を境に、戦後はすっかり姿を消してしまいました。

その③*京阪地方の段飾り

 明治時代後半に大都市部に誕生した百貨店(呉服屋を前身とするものが多い)が、雛飾りの一式売りをはじめると、五段飾り、七段飾り……などのセットものが裕福な町家を中心に人気を博します。

 京阪神地方においても、内裏雛、三人官女、五人囃子、随身(ずいしん)、仕丁(しちょう)の15人揃いに浮世人形などを添え、衣食住の諸道具も整えられていきます。

 ここに展示する段飾り雛は、昭和初期に作られた一式で、京阪地方らしく、五人囃子が“雅楽演奏”を行っていることにもご注目下さい。一般的な五人囃子は“能楽演奏”を行っており、江戸(関東地方)で誕生したものです。

京阪地方の雛道具「雛の勝手道具」

 江戸時代後期、嘉永6(1853)年に喜田川守貞が著した『守貞漫稿』には、江戸と京阪の雛飾りについて、興味深いことが記されています。
 

 「京阪の雛遊び・・・・・(中略)・・・・・調度の類は箪笥(たんす)長持(ながもち)、多くは庖厨(=台所)の諸具をまね、江戸より粗で野卑に似たりといえども、児に倹を教え、家事を習わしむるの意に叶えり・・・」。

 つまり、江戸時代後期、京阪地方では身近な台所道具が雛飾りに用いられ、女児の家庭教育の道具としての位置づけを持っていたと考えられます。

 神棚のある台所(=勝手)、井戸、かまど(=くど)などが当時そのままの姿で小さく作られた雛道具は、京阪地方の町家を中心に明治・大正を通じて人気を博し、昭和初期の頃まで雛段の下部に置かれました。「黒漆塗りの雛道具はお雛さまのためのもの、白木の勝手道具は女児たちのためのもの………一般にはそのように言われて親しまれ続けました。

明治末から大正時代の勝手道具

 明治末から大正時代の勝手道具には、車井戸にならんで、水道の蛇口が登場しています。大阪では、明治28(1894)年に桜の宮水源地が完成し、京都では琵琶湖第一疎水の完成後の明治24(1891)年に蹴上発電所が立ち上がっています。明治末から大正時代にかけて、京阪神間の諸都市で生活用水としての水道が整っていきました。けれども、勝手道具の中に水道の蛇口を探すと、まだ外に備え付けられていることに気付きます。食器洗い場の流しの上に蛇口が出来るまでにはもう少し時間を要しました。
 ままごと道具は、時代の女性の夢に敏感です。その分、時代を表現する歴史資料としての価値を有しているのです。

大正期の勝手道具

雛料理の器いろいろ

  雛飾りは静的なイメージの祭りですが、かつては雛を飾った部屋に女児たちが集まって、人形と季節料理を共食したり、歌舞を繰り広げたり…と 動的な要素も多く含まれていました。ここでは、江戸末期から明治時代に、実際に使用された小さな雛料理用の食器などを集めて展示し、人形飾りだけではない雛祭りの楽しみをふりかえります。