「ヨーヨー」と「手車」 | 日本玩具博物館

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今月のおもちゃ

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2024年11月

「ヨーヨー」と「手車」

  • 昭和初期(1930年代前半)
  • 日本/木

 
ヨーヨーは、二つの車を短い軸でつなぎ、そこに巻き付けた糸の先をもってふり下ろし、しゃくり上げ、両輪を回転させて遊ぶもの。その始まりは古代ギリシャの玩具かフィリピンの狩猟具か、いや中国の発明か?!と諸説ありますが、歴史をたどれば、近世以来、その流行は世界的規模で起こっていることがわかります。

18世紀、英国で「プリンス・オブ・ウェールズ」、フランスで「ヨーヨー・ド・ノルマンジー」の名前で親しまれたヨーヨーは、同じ時代、米国でもインドでも、上流階級を中心に広く知られていました。中国を経て長崎へ渡来したヨーヨーが日本で初めて流行するのも18世紀のことです。
享保年間(1716~36)には「お蝶殿の手車」と呼ばれて上方の老若男女に愛されていました。土製の菊花形を二つ合わせたもので、明和7(1770)年、鈴木春信画『よし原美人合わせ』の中にも登場します。さらに、寛政10(1796)年刊『近世畸人伝』(伴蒿蹊著)には興味深い記事が残されています。
「享保のはじめ、京に手車といふものを売る翁あり。糸もてまわして、これは誰がのぢゃ、といへば、これはおれがのぢゃ、と答て童べ買てもてあそぶ。されば此人いでくれば、童つどひて喜ぶことなりし、後はまた難波に往て、売ること京のごとくして、終にある家の軒の下に端座して死す」と。
19世紀中ごろの文献『守貞謾稿』(喜田川守貞著/嘉永6・1853年)には「・・・近年迄江戸も此物あり、蜑の釣りごまと號く也」と記され、上方から江戸へと伝播した手車は、「あまのつりごま」の名で親しまれていたことがわかります。
―――こうして、すでに近世、さまざまな名前をもったヨーヨーが世界中を駆け巡っていたという事実には驚かされます。

昭和初期(1930年代前半)の木製ヨーヨーと明治時代の玩具絵本『うなゐの友』に描かれた土製手車

二度目の流行は20世紀前半。1929年、米国カリフォルニア州のヨーヨー製造会社が毎日30万個を送り出すほどの大ヒットを飛ばしたことに端を発します。1932年、英国で世界大会が開催されれば、欧州でもヨーヨー製造が始まり、翌年、その熱波が日本へも押し寄せてくるのです。
永井荷風は、小説『濹東綺譚』(昭和12年刊)のなかでこのように記しています。
「銀座の裏表に処を択ばず蔓延したカフェーが最も繁昌し、また淫卑に流れたのは今日から回顧すると、昭和7年夏から翌年にかけてのことであった。(略)裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る娘の姿を見かけぬことはなかった」と。

昭和初期(1930年代前半)のヨーヨーいろいろ

昭和7(1932)年には「ヨーヨー選手権大会」も開かれました。当時、外国製ヨーヨーは3円と高価でしたが、神奈川県小田原近郊の村では、10銭ほどのヨーヨーを毎日、3万個も作っていたという記録があります。街中にヨーヨーをふる若者があふれ、会社員も主婦も子どももみな夢中になったことが当時の様々な資料から浮かび上がってきます。私たちが「(お蝶殿の)手車」や「あまのつりごま」ではなく、「ヨーヨー」と呼ぶようになったのは、二度目の世界的流行に呼応した昭和初期からなのです。

インターネットもSNSもない時代にあっても、ある種の玩具は国際性をもっていました。すなわち、しかけが単純で、遊び手の技量が大いに要求される玩具には、国境をこえて人の心をとらえ、夢中にしてしまう力があるのです。そしてそれは、一旦すたれてしまったとしても、ある日、再び息を吹き返し、少し形を変えて新たな流行をつくりだしていくものだと思います。

ヨーヨーで遊ぶブラジルの子どもたち(1995年春)

ヨーヨーはこの後、昭和40年代後半(1970年代)、そして平成初期(1990年代)にも日本で流行を観ましたが、それは、イギリスでもアメリカでもブラジルでも、ほぼ同時期であったと言われています。転がり落ち、また我が手に戻ってくる小さな車の愛しさ――時をこえ、国境をこえて生きてきたヨーヨーは、未来の人々の手の中でも回り続けているのでしょうね。

(学芸員・尾崎織女)