今月のおもちゃ
Toys of this month
「名古屋の雀蛤笛」
●二十四節気「寒露」の次候、七十二候の第五十候は「菊花開」、——10月13日から17日ころにあたり、文字通り菊の花が開く佳い秋の日々です。この同じ第五十候について、中国では「雀入大水為蛤」(雀大水に入り蛤と為る)候とされています。大水とは海を意味しますので、雀が海に入って蛤に変身する時候というわけです。稲刈りが終わると、里で賑やかに暮らしていた雀が居なくなり、海辺で騒いでいたかと想うと姿が見えなくなってしまうことから、海の中に入って蛤に変わってしまうのだろうと中国の古代・中世人は考えたのだとか…。
●この幻想的な中国の俗信は、かつては日本でもよく知られており、「雀蛤となる」は秋の季語。江戸時代のころから俳諧にも詠みこまれています。
蛤になる苦も見えぬ雀かな(小林一茶)
蛤とならざるをいたみ菊の露(夏目漱石)
蛤に雀の斑あり哀れかな(村上鬼城)
蛤や少し雀のこゑを出す(森澄雄)
●なぜか静かな哀しみさえ漂う「雀蛤になる」という題材を土笛に仕立てたら情趣があろうと思いついたのは、戦前に(戦後も)活躍した郷土玩具蒐集家にして、東海地区きっての趣味人、伊藤蝠堂(吉兵衛/1905-61)だったようです。三重県富田町(現在は四日市市)の造り酒屋の裕福な家に生まれ蝠堂は、家業の傍ら、郷土玩具蒐集にのめり込み、2棟の蔵をそれぞれに❝蝙蝠堂❞ ❝於茂千也函(おもちゃばこ)❞と名付けて、蒐集品5万点を愛蔵していました。濱島静波(1901-41)や松岡香一路、吉野愛玩人とともに名古屋「四光会」を結成して、趣味誌『古茂里』や『草紙』などの発刊を行い、また、郷土玩具の産地に題材とアイディアをもたらして、新たな作品を創生する活動にも楽しく取り組んだ人だったと伝わります。
●伊藤蝠堂は、四光会の仲間とともに、50作品を収めた木箱を50組準備して、昭和9(1934)年5月、「土笛交換会」を企画しました。三重県が❝桑名の焼はまぐり❞で有名な土地であることも手伝っていたでしょうか、50作品のなかには、2種類の雀蛤笛が含まれ、ひとつめは二枚貝をきっちり閉じた形、ふたつめは二枚貝から舌(足)を出してそこを吹き口としたもの、——当館は所蔵していませんが、どちらも味わいのある造形で、江戸時代後期から続く伝統の産地、名古屋土人形の野田末吉(1902-89)に依頼して作ってもらったものといわれています。
●一方、下記の画像は当館が所蔵する戦前の雀蛤笛で、こちらも名古屋の野田末吉の手になるものです。

●二枚貝の殻頂を嘴に見立てて両の靭帯部分に頬の黒い斑を描き、両翼を広げた福良雀のような愛らしさがあります。ここまでは、伊藤蝠堂ら四光会のひとつめの作品と同じです。異なっているのは、殻の表面に青い波が描かれていること、そこに波を散らして飛ぶ風雅な千鳥形の歌口が作られているところです。きっちりと合わせた二枚貝の角にある吹き口から息を入れると、穏やかな中高音が響きます。雀が海のなかで静かにしている情景を想うためでしょうか、その音はチーチーと少し哀しみを帯びて聞こえるから不思議です。
●当館の所蔵品と同じ雀蛤笛を、戦前大阪のおもちゃ絵師・川崎巨泉(1877-1942)が描いており、ありがたいことに、大阪府立図書館が公開している「人魚洞文庫データベース」で見ることができます。
蛤笛 :おおさかeコレクション
●巨泉がその絵に添えた「昭和十一年 吉田氏案寄贈」という文字情報が気になります。また、巨泉のおおもちゃ絵にも当館の所蔵品にも、裏側に「大和堂」と銘があるのですが、伊藤蝠堂らが野口末吉に作ってもらった雀蛤にさらなるアレンジを加えた図案を示したのが吉田氏で、大和堂とは、吉田氏の雅号なのでしょうか。当時の様々な愛好家グループに名を連ねた郷土玩具収集家や趣味人、川崎巨泉とお付き合いのあった方々のなかに「吉田氏」「大和堂」などの名を当たってみるのですが、未だ決め手がなく、さらに調べてみたいと思っています。ご存知の方にはぜひ、ご教示くださいませ。

●名古屋の雀蛤笛は近世より伝えられた型ではありませんが、風雅で愛らしく、戦前の愛好家たちが様々な立場から郷土玩具の創生に取り組んでいた当時の薫りを伝える興味深い資料のひとつだといえます。
(学芸員・尾崎織女)