「五人囃子」 | 日本玩具博物館

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今月のおもちゃ

Toys of this month
2011年3月

「五人囃子」

  • 江戸末期
  • 江戸/練物・胡粉・木・竹・布・紙

 今、雛飾りといえば、五段、あるいは七段の雛壇をつくり、最上段に屏風を立てて内裏雛をすえ、二段目には三人官女、三段目に五人囃子、四段目に随身(左大臣・右大臣)、五段目に仕丁(三上戸)…と並べた様子を思い描きます。けれども、このような様式が定まり、全国各地に普及していくのは、明治時代終わり頃のことです。

 江戸時代の絵画を見れば、屏風を立てて幾組もの内裏雛と諸道具を並べ飾るものや、数段を組んで内裏雛と添え人形、それにお供え物の菱餅や草餅、諸道具類を並べ置くものなど、本当にさまざまです。

 江戸では、京製雛人形の移入が禁止された宝暦9(1759)年以降、原舟月をはじめ、江戸町独自の名工が現れて、江戸好みの雛人形が作られるようになりました。天保2(1831)年刊行の『宝暦現来集』(山田桂翁著)によると、「五人囃子」もまた、天明年間(1781~88)に江戸町で考案されたものだといいます。

 五人囃子は、謡、笛、小鼓、大鼓、太鼓をそれぞれが担当し、全体に能楽を演奏する童子姿の人形です。もし、こうした楽隊の人形が京都で考案されていたとしたら、それは雅楽を演奏する童子、あるいは官女の人形であったでしょう。能楽は武家の式楽(幕府が儀礼に用いる音楽)であり、将軍家のお膝元である江戸町で、当時、非常に人気がありました。愛らしい童子姿の五人囃子は、江戸の人々の大歓迎を受け、内裏雛のもと、添え飾りとして雛壇を彩り始めました。 

 実際に、天保年間(1830~43)頃に描かれた香蝶楼国貞(歌川国貞)の江戸の浮世絵「風流古今十二月ノ内 弥生」においても、内裏雛の下の段には五人囃子がずらりと飾られています。けれど、ここには、三人官女や随身、仕丁の姿は見えません。なぜなら、これらは京都生まれの添え人形だからです。私たちが見慣れた十五人揃いの雛飾りは、つまり、京都と江戸の雛人形たちが合体して構成されたもの、といえるでしょうか。

『風流古今十二月ノ内 弥生』 香蝶楼国貞(歌川国貞) 画 三枚続きのうち一枚

 写真にご紹介する五人囃子は、江戸末期に江戸の町で製作された人形です。きりりとした童子たちの表情を細見すると、笛の童子は上唇ととがらせて息を吹き込み、太鼓の童子は、口をつぼめて撥を打たんとする瞬間であることがわかります。渋い色あいの衣装には、金糸によって愛らしい蒲公英(たんぽぽ)の縫い取りも施され、隅々に工人の技が光る佳品です。この作品は、6号館で開催中の特別展「雛まつり~お雛さまと雛道具~」において、江戸後期の古今雛の下段に展示しています。