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学芸室から 2019.06.20

てるてる坊主・照々法師・日和坊主

雨の季節。遠足で幼稚園などから来館される小さな子どもたちのため、晴れを願って博物館の窓辺にたくさんのてるてる坊主をつるしました。しとしと雨にうつむき加減で下がっていると淋しそうに見え、それが青空の下、涼風に吹かれていたら一転して愉しそうにも感じられるのですから、人形とは不思議なものですね。

さて、このてるてる坊主、四角い白布や紙の真ん中に綿をおき、糸でくくって頭を作っただけの素朴な形が一般的ですが、江戸時代のてるてる坊主は白い着物を着ているのをご存知でしょうか。去る春、名古屋市博物館で開催された浮世絵の特別展で、歌川国芳の「三海めでたいつゑ 十 天気にしたい」という作品に目がとまりました。画面のなか、美しい娘が“天気にしたい!”とばかりに、てるてる坊主にお猪口で酒を飲ませようとしているのです。それは、まじないをこめて「てり、てり、てり、てり・・・」と墨書きをした白い着物をまとっています。

嘉永5(1852)年・歌川国芳の浮世絵「三海めでたいつゑ十天気にしたい」(部分)に描かれた照々法師  ※名古屋市博物館特別展「挑む浮世絵」図録より
国芳の浮世絵の照々法師を尾崎が再現したもの

『嬉遊笑覧』(喜多村信節著/天保年間)をはじめ、江戸後期の文献をみると、当時は「照々法師(てりてりほうし)」「てり雛」「てるてる」など様々な呼び名があり、晴天の願いをかなえてくれた暁には目を書き入れ、神酒を飲ませたらしいことがわかります。国芳の「てりてり」に興味  を覚え、京都の七夕紙衣を仕立てる要領で、浮世絵のなかの照々法師を再現してみました。ホオズキ人形のような簡素なてるてる坊主に比べて、和紙を縫ったり貼ったり、墨で文字を書き入れたり、帯用にこよりを作ったり……と手間がかかる分、思いもこもり、ずいぶん愛着がわいてきます。

ところで、晴天を請け負う人形「てるてる坊主」の起源はどこにあるのでしょうか?
一つには、中国の「掃晴娘(サオチンニャン)」の影響が考えられます。降り続く長雨に大洪水の危機が村に迫るとき、晴娘が自分の命と引きかえに雨を止ませたという伝説があり、元朝(13世紀)の頃より、黄河や揚子江流域の町々では、晴天祈願に際して掃晴娘をかたどった剪紙(=切り紙細工)が作られていたそうです。「掃天婆(サオティエンポー)」と呼ぶ剪紙を作って捧げる地域もあるようで、中国剪紙作家の上河内美和さんから「掃天婆」の剪紙を見せていただいたことがありました。掃晴娘も掃天婆も雲を掃く箒を持つ姿で表現されています。

中国剪紙作家の上河内美和さんの「掃天婆」の剪紙

もう一つは、夏の晴天時に山中に現れる妖怪「日和坊」につながりを求める説があります。『今昔画図続百鬼』(鳥山石燕著/安永年間)を見ると、日和坊は、常陸の国の切り立った山を背に剃髪した僧侶の風情でたたずんでいます。昭和中期頃までは、てるてる坊主を「日和坊主」と呼ぶ地域もあったようで、この妖怪とてるてる坊主もどこかで関係しているのではないかと思われます。

『今昔画図続百鬼』(鳥山石燕著/安永8・1779年)より「日和坊」

「照々法師」「てり雛」「てるてる」「日和坊主」………。かつては様々な呼び名をもっていた晴天祈願の人形が「てるてる坊主」の名で全国に定着したのには、大正10(1921)年に発表された童謡「てるてる坊主(作詞=浅原鏡村・作曲=中山晋平)」が愛称されたことや昭和8(1933)年の小学国語読本に登場したことが大きな理由だったのではないでしょうか。
小学国語読本第二巻には、遠足の前日、雲行きのあやしい空模様を心配した太郎さんがてるてる坊主を作り、木につるして、「テルテルボウズ、テルボウズ、アシタ天キニシテオクレ」と歌ったと綴られます。全国の子どもたちがこの教科書で学び、太郎さんと一緒に愛唱したのであれば、名前が統一されていくのも当然のことだったと思われます。今、高齢者が集われる生涯大学などで尋ねてみると、ほぼ全員が「てるてる坊主」と回答されます。 

『小学国語読本 巻二』(昭和8・1933年)の挿絵 太郎 さんとてるてる坊主   ※国立国会図書館デジタル化資料より

江戸時代、手作りの着物を着せて晴天を願った人形は、近代化とともに簡素な姿となり、多様性を失いました。さらに天気予報の精度があがるにつれ、その出番はめっきり減ってしまったようです。けれど、なんでもない姿のなかにも歴史が秘められ、時代時代を生きた人々がそれぞれに晴天の佳き日を願う純な心が表現されています。雨の季節――ぜひ、子どもたちと一緒にてるてる坊主を作ってみて下さい。  (尾崎織女)

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