日本玩具博物館 - Japan Toy Musuem -

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館長室から 2013.11.01

文化の日によせて・・・「文化遺産を守るには」

11月3日は文化の日です。この日は1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、1948年7月20日に公布施行された「国民の祝日に関する法律」で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として「文化の日」が定められました。11 月3日は皇居で文化の発展に功労のあった人々に対して文化勲章の授与式が行われるほか、各地で文化に係るいろいろな催事が開催されます。
しかし現在、スポーツや食文化がマスコミなどで華やかな脚光を浴びる半面、博物館や美術館などの文化施設は一部を除き、10数年前から冬の時代が続き、近年はさらに厳しさが増して、厳冬期に入ったと言われる状況下にあります。そしてこのところ気になるのは当館とも交流のあった、個人の意思で貴重な文化遺産を蒐集し、保存公開するために設立された博物館施設が閉館されるニュースが相次ぐことです。

広島県福山市にある日本はきもの博物館と併設の日本郷土玩具博物館は、財団 法人遺芳文化財団の経営ですが、先般、11月24日で閉館するとの文書が届きました。同館は履物会社の経営者だった丸山茂樹氏(1934~1996)が設立され、はきもの博物館は当館より4年後の1978年に、玩具博物館は1994年に開館しました。玩具を蒐集保存するという共通の立場から同館の学芸員とは設立当時から交流がありました。また同館は当館と同じくサントリー地域文化賞を受賞した数少ない博物館施設のひとつでした。閉館の大きな理由は入館者の減少などによるもので、1995年頃は年間6万人あった入館者が現在は1万2千人と減少し、最近は運営費の6割が理事長の寄付で賄われていました。財団は11月30日に解散されますが、施設と資料は伝統産業の文化財継承のため、福山市が引き継ぐ方針と聞いています。

日本はきもの博物館と日本郷土玩具博物館外観

奈良県安堵町の富本憲吉記念館は芦屋市にお住まいだった実業家の辻本勇氏が、出身地の安堵町にある富本憲吉氏の生家を買い取り、同氏が蒐集されてきた富本氏の作品や関連する文献資料などのコレクションを展示して、富本憲吉氏を顕彰する施設として当館と同じ1974年に開館した個人立の施設でした。辻本氏とは何度かお会いしてお話したことがあります。1980年頃は年間入館者が8千人あったのが最近は3千人にまで落ち込み、2008年に辻本氏が逝去後は義弟の山本茂雄氏が継承されましたが、昨年5月に閉館になりました。施設や資料を奈良県にとの話もあったと聞きますが不調に終わり、陶芸関係のコレクションは半数が兵庫県陶芸館と大阪市立美術館へ寄贈され、オークションにも懸けられたようです。貴重な資料が散逸したのが残念です。

山形県鶴岡市のアマゾン民族館は、同地出身のアマゾン研究家の山口吉彦氏(71)が蒐集されたアマゾンの先住民関係の資料を展示するユニークな施設で鶴岡市が1994年に設立しました。
私と山口氏とは1998年に第20回サントリー地域文化賞を共に受賞したご縁があり、授賞式後、山口ご夫妻は当館にご来館下さいました。私も2007年にちりめん細工の傘福を調査のために酒田市を訪れた際、隣接する鶴岡市の同館を訪問、館内をご案内いただき、旧交を温めました。施設・コレクションともにすばらしい施設でした。山口氏は1970年代から80年代にかけて日本人学校の教師の傍らアマゾン川流域に入られ7千点にものぼる先住民の貴重な資料を蒐集されたのです。急速な開発により先住民の伝統的な生活様式は失われ、現在ではこのような資料の収集は不可能とされ、世界でも有数のコレクションと評価されています。市内の出羽庄内国際村にアマゾン民族館がオープンすると共に山口氏は館長に就任、活躍されていました。

アマゾン民族館の展示

ところが4年前に同市のトップが替わると流れが変わり、入館者の減少や資料借用料などの費用対効果や開館後20年になり異文化理解の点で一定の役割を果たしたとして来年3月に閉館されることになりました。皇族の秋篠宮殿下も数回訪問され「世界に誇る貴重な宝」と評され、国立民族学博物館中牧弘允教授や東京大学木村秀雄教授ら10人の有識者が鶴岡市長に同館の存続をと意見書を提出されましたが、同市から「閉館を覆すことは不可」との回答があったと聞きます。確かに入館者数は開館当時の年間3万7千人が2011年には3千人を割り込む厳しい状況でした。
しかし文化遺産の価値は入館者数で判断できるものではないのです。後世になって光輝く文化遺産はいくつもあります。明治時代に浮世絵などが大量に海外に流れましたが、現在その里帰り展が再三開催され大勢の人を集めています。
蒐集には、人とタイミングが欠かせません。山口氏という人があり、また先住民の生活様式が大きく変わる寸前という時期に蒐集されたからこそ、このような貴重な資料が収集できたのだと思います。山口氏の蒐集資料が散逸することなく、きちんと後世に残ることを心から願う次第です。

私は蒐集を始めて今年で50年になりますが、タイミングの大切さを痛感しています。世界の玩具にしても、経済の発展と共に生活内容が変わると手づくり的な玩具や人形などは急速に姿を消しましたが、その寸前に貴重な資料の蒐集に成功したのです。残念なのは今年になって、長年に亘り収集の手助けをしていただいたアフリカ、東南アジア、中南米の各輸入業者が廃業されたことです。今もお世話になっている業者は数社ありますが、その扱われる商品が大きく変わりました。装身具的なものが多くなって私たちが欲しいものが本当に少なくなりました。
当館の資料は検証していただくと世界でも屈指のものになっていることに気付かれると思います。現在開催中の「世界のクリスマス」にしても35年前から蒐集してきたのですが、昨年末に来館されたドイツの玩具専門家が、このような内容のクリスマスコレクションを見るのは初めてだと驚きのお言葉をいただきました。クリスマスの時期に何度も海外に出かけて収集し、輸入業者の協力もあって、本場のドイツでも見られないような内容のコレクションの構築に成功したのです。

当館の入館者数も大きく減少しました。1990年代の前半は年間6万人あったのが現在2万人です。しかし来館された方の感動の度合いは大きくなっており、6号館前に置かれた感想ノートには感動の言葉や来た甲斐があったと喜びの言葉が沢山記されています。人々の博物館離れや地域力の低下が大きく影響していると思います。残念ですがいつも弁当を配達して下さっていた「かまど屋」さんが先日閉店になり、またひとつ、地域力が低下しました。当館もちりめん細工に係る通販事業の成功がなければ閉館の事態に至っていました。利のためでなく、伝統手芸の再興に必要だと始めたものが博物館運営を大きく支えてくれています。ちりめん細工が恩返しをしてくれたと思うことがあります。

収蔵資料は現在も増え続け、それも思いもよらぬ貴重な資料が寄せられます。9月には懇意にしていた郷土玩具収集家の遺族から郷土玩具が届きました。整理をすると戦前の琉球の玩具が16点もありました。当館は同時期の資料を60余点収蔵していますので合計すると80点近くになります。戦前の資料は沖縄の博物館も収蔵されておらず、恐らく琉球玩具コレクションとしては国内トップといえるでしょう。当館の真摯な活動が認められているからでしょうか、昨年の中国民間玩具もそうでしたが、本当に一個人が運営する博物館に、驚くような貴重な資料が続々と寄せられてきます。これまでにも繰り返し申し上げていますが、私は当館が所蔵する資料は私有物だとは考えていませんし、本来ならば社会が保存し守るべき資料だと考えています。これらは放置しておれば、その多くが消え行き、後世に残ることはなかったと思います。ただ私も、財力のない一個人がこれほどの資料を将来に守り伝えていくことは限界が来たことを痛感しています。

受け入れた昭和初期の琉球玩具

文化遺産を後世に遺したいと使命感に燃え、人生をかけて収集し、個人で博物館施設を設立された方は、私以外にも全国に大勢あります。しかしその多くが社会的な支援のない中で閉館に追い込まれ、貴重な資料が失われました。
世界的にも有名なイギリスの大英博物館は、収集家であった一医師が築いたコレクションがベースになって1759年に開館し、その後、社会の支援もあって大きな発展を遂げました。
失われ行く文化遺産を収集し、後世に継承するために頑張っている民間博物館の現状に、ぜひ目を向けていただきたいのです。文化の日を前に、私の思いを綴らせていただきました。

中国民間玩具

(館長・井上重義)

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