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学芸室から 2008.04.28

五月の空の鯉のぼり 

屋根を越えて高く広がる青空に、黒(青)・赤・青(緑)の鯉形の吹流しが悠然と泳ぐ風景は五月の風物詩。端午の鯉のぼりは大昔からの伝統のように考えがちですが、鯉のぼりが皐月の空を泳ぎ始めたのは、江戸時代後期のこと。19世紀に入ってからのことと考えられています。

右は、延享年間(1744~47)頃の文献『俳諧續清鉋』にみえる俳画ですが、鍾馗(しょうき)が描かれた武者幟(のぼり)の「まねき」の部分に鯉が付けられています。鯉のぼりは、屋外に立てる武者幟の「まねき」から発展したものとも考えられています。この鯉の作りものを、やがて大きな鯉の吹流しへと成長させた江戸町人たちの感性は、とてもユニークですね!

中国の有名な故事「龍門伝説」は、すでに江戸の町ではよく知られていました。急流をさかのぼって狭き門をくぐり、立派な龍(中国で、龍は皇帝を象徴します)に転身する鯉は、立身出世のシンボルとみなされていましたから、大空を翔る鯉のぼりは大歓迎を受けたことでしょう。
『江都二色』(安永2/1773年刊の玩具絵本)には、「鯉の滝のぼり」の名で、鉛のオモリを使った箱型のカラクリ玩具が描かれていますし、また竹バネを利用して作られる同名の玩具もまた、江戸っ子たちの人気を集めていました。体をピンピンと動かし、滝をスルスルと上がっていく元気な鯉の手遊びは、希望に満ちた子どもたちにこそふさわしいものと受け止められたことでしょう。

『江都二色』に描かれた「鯉の滝のぼり」  /江戸時代に江戸町で人気のあった「鯉の滝のぼり」(復元)と来館した男の子。今の子どももこの玩具は大好きです。 

江戸時代に誕生した鯉のぼりは紙製で、比較的小さなものでしたが、端午が男児の幸福を願う節句として盛んに祝われるようになるにつれ、大型化の一途をたどりました。けれども、誕生した頃から明治・大正時代、鯉のぼりといえば、黒い鯉一匹というのが一般的だったのです。

左の画像は、明治時代末期から大正時代にかけて飾られた端午の掛け軸です。画面中央には、武将たち(太閤秀吉と加藤清正)が勇ましく描かれていますが、上段は、富士山を背景に幟がはためく皐月の空。一匹の黒い鯉が薫風を受けて尾を跳ね上げています。黒の真鯉は、激流をさかのぼって龍門をくぐり、大空へと放たれた「龍」を表現したものだったのかもしれません。

鯉のぼりが布製となり、何匹にも家族を増やしたのは、大正から昭和時代初期頃のことでしょうか。
   ♪ヤネヨリタカイ コヒノボリ オオキナ マゴイハ オトウサン 
   チイサイ ヒゴイハ コドモタチ オモシロソウニ オヨイデル♪ 
                (「コイノボリ」/作詩・近藤宮子)
この歌が『エホンシャウカ』(日本教育音楽協会編)に掲載されたのは昭和6(1931)年のこと。以降、戦中戦後から平成の今まで、端午の節句といえば、全国津々浦々、多くの人たちがこの歌を口ずさみ、広く親しまれることで、長い一本の竹竿に泳ぐ大小の鯉のぼりを、私たちは家族に見立てるようになったのだと思われます。

香寺町の空にも鯉のぼり

黄金週間を控えて、香寺町の屋根の上にもあちこちで鯉のぼりが泳ぎ始めました。五月の空を仰ぎながら、新緑に萌える田の道をたどっていただき、ぜひ、初夏の特別展「端午の節句飾り」へとお訪ね下さいませ。

(学芸員・尾崎織女)

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