姫路の廃絶玩具「ポッペン」 | 日本玩具博物館

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今月のおもちゃ

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2024年8月

姫路の廃絶玩具「ポッペン」

  • 昭和40年代
  • 兵庫県姫路市/硝子

○喜多川歌麿の錦絵「ビードロを吹く女(娘)」「ポッピンを吹く女」(1793年ころ)で有名な「ビードロ」は、江戸時代、中国から渡来した新奇な玩具だったに違いありません。細いガラスの管から中の空気を吸い込んで離すと、底の平らなガラス面が振動して、ポペンと音が鳴る玩具。発せられた音色を❝聞きなして❞、「ポッピン」「ポンピン」「ポペン」「ポコンポコン」「チャンポン」「ポコン」などと呼ばれ、江戸時代の町人たちに愛好されていました。明治維新後のまもない時期に日本を訪れ、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースは『日本その日その日』(1877~1883年の日本を描いた随筆)のなかで、江戸の町を行く大道芸人が竹の管にたくさんのビードロを刺したものを器用に鳴らす様子を描写しています。江戸のビードロ(ポッピン)が全国へ広まったのは、明治時代の終わりから大正時代にかけてのことと考えられています。

エドワード・S・モース『日本その日その日』(石川欣一訳/東洋文庫)に描写されたポッピンの大道芸人たちの様子

○「ポッペン」と呼ばれる姫路のビードロは、形が瓢(ふくべ)を想わせるためか、姫路の「ポッペン」はその音が新春の福を呼ぶとして、昭和30年代に入ったころまでは正月の播磨国総社や十二所神社の初えびすなどでも売られ、子どもたちにも人気があったようです。ところが、子どもたちが壊れやすいガラス製品で遊ぶことの危険性を理由に作られなくなっていきました。

○時を経て、姫路の「ポッペン」が復活を果たすのは、昭和40年代のこと。ガラス細工(主に輸出用のガラスビーズ製作)の合間にかつてポッペンを作っていた佐谷勇次郎さんを見つけ出し、郷土玩具の世界や地元姫路に広く紹介をしたのは、若き日の当館館長・井上重義です。今では長崎の「ビードロ」や博多の「チャンポン」が有名になりましたが、井上館長が郷土玩具の収集を始めた昭和38(1963)年、全国でこのようなガラス細工は廃絶しており、❝幻のおもちゃ❞だったといいます。なんとか入手してみたいと出かけた福岡でもまったく見つからず、がっかりしながら、館長はふと思いついたそうです。――姫路には正月の松飾りに「金玉」と呼ばれる色とりどりのガラス玉をつるす風習があり、そのようなガラス玉を作れる職人さんなら、ポッペンも作れるのではないかと。

―――予感は的中しました。たずね回り、捜しあてた職人さんが「作ったことあります。そこらに十年ほど前に作ったのがころがってまっしゃろ」と夢にまで見たポッペンを金玉の間から出してこられたのです。・・・(中略)・・・「いるんでしたら、今でもつくりまっせ」と、佐谷さんは早速目の前にポッペンを作って下さいました。ガラス管(これも手作り)の先に窯の中で溶けたガラスを付けて丸くふくらませ、丸い部分の底を炎で熱しながら管をもむと、遠心力で柔らかい部分が平らになる、その時素早く吸ったり吹いたりして平らの部分を反らせてできあがりです――『兵庫の郷土玩具』(井上重義著/神戸新聞出版センター・1981年刊)

井上館長は、この感激の出会いをのちに『兵庫の郷土玩具』のなかに、上記のように綴っています。昭和42(1967)年の暮も近い日のことだったそうです。

明治38年生まれの佐谷勇次郎さん、再びポッペンを作る
姫路の「ポッペン」―直径20㎝もの巨大なサイズから3㎝ほどの小さなものまで。正月や初えびすが近づくと露店商人の注文で作り、絵柄は露店商人が描くことが多かったようです。

○佐谷さんの実直な人柄と丁寧に手仕事、さらに館長の熱意によって、幻のおもちゃの復活は幾つものマスメディアでとりあげられ、姫路市観光協会も姫路の新名物として昭和48(1973)年2月から姫路城の売店に並ぶようになったのです。地元の方々のなかにはご記憶の方もいらっしゃるのではないでしょうか。その後、残念なことに姫路のポッペンは佐谷さんのご逝去とともに再び消えてしまいました。

当時、井上館長が佐谷さんに依頼して作ってもらった水風鈴と水揚げ(噴水)

○―――それでも、ポッペンの透明なガラスは、終生ガラスを吹き続けた職人の晩年をキラリと輝かせ、楽しい音色は郷土玩具の世界に確かな余韻を残しています。

(学芸員・尾崎織女)