陶磁製の「浮き金魚」 | 日本玩具博物館

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今月のおもちゃ

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2024年6月

陶磁製の「浮き金魚」

  • 明治末~大正期
  • 愛知県瀬戸市/陶磁器

金魚が中国から伝来したのは室町時代のこと。江戸時代に入ると『金魚養玩草』(安達喜之著/延享・1748年)などの飼育書も発刊され、庶民層にも金魚を飼育して姿を愛でたり、品評会を開催したりする文化が花開きます。都市部の人々は、金魚店や行商の金魚売りから好みの金魚をもとめ、水盤などに放って金魚がすずしげに泳ぐ姿を観賞していました。中国で金魚といえば、その発音「jinyu」が「金余」に通じるため、豊かさの象徴とされて様々な意匠に用いられていますが、生命の色である赤が病魔除けに効果があると考えられていた当時の日本人にとって、金魚はただ可愛らしいだけでなく、縁起のよい生き物でもあったでしょう。
そうした金魚ブームを受け、江戸時代末期には陶磁製の「浮き金魚」が誕生していたようです。『郷土玩具種々相』(有坂與太郎著/大正15・1926年刊)には、幕末のころ、浮く燗徳利に着想を得て、楽栄という人が創案したのが最初であると記されています。残念ながら、当館の所蔵資料にそのころの浮き金魚は含まれず、実物に出あったことがありません。


画像は、日露戦争が始まった明治37(1904)年に、愛知県瀬戸市の伊藤金次郎がつくり始めた❝瀬戸ノベルティ(=瀬戸で生産される陶磁器製の人形や置物、装飾品などをさす)❞の浮き金魚で、大正時代前半ころまで盛んに製造され、全国の都市部で親しまれました。種類はリュウキン、それともランチュウでしょうか。大小がありますが、全長5~7㎝ほどの更紗模様が愛らしい金魚です。中が空洞になっているため、水を張った桶にそっと浮かべると、金魚がゆらゆらと泳いでいるように見えます。子どもたちは、浮き金魚と一緒に入浴したり、水遊びの友として可愛がったりしたことでしょう。やがてブリキ製やセルロイド製の浮き金魚(や浮き鯉)の量産が始まり、瀬戸物の浮き金魚は一旦、退潮していきます。


ところで、筆者は、夏季テーマ展示「玩具のなかの戦争色~戦時下のこどもたち」の準備のため、先日来、小説家で詩人としても活躍した高見順(1907-65)の『敗戦日記』(昭和34年/文芸春秋新社刊)を読んでいます。そこには庶民の暮らしと共存している戦争というものの実体が文化人の視点でつづられており、読み進めるうちに、彼が暮らしていた戦時下の鎌倉へといざなわれていきます。そのなかに興味深い一節がありました。

最近の世間話から――爆弾除けとして、東京ではらっきょうが流行っている。朝、らっきょうだけで(他のものを食ってはいけない。)飯を食うと、爆弾が当らない。さらに、それを実行したら、知り合いにまた教えてやらないとききめがない。いつか流行った「幸運の手紙」に似た迷信だ。 またこんなのも流行っているとか。金魚を拝むといいというのだ。どこかの夫婦が至近弾を食って奇蹟的に助かった。その人たちのいた所に金魚が二匹死んでいた。そこで、金魚が身代りになったのだといって、夫婦は金魚を仏壇に入れて拝んだ。それがいつか伝わって、金魚が爆弾除けになる、金魚を拝むと爆弾が当らないという迷信が流布し、生きた金魚が入手困難のところから、瀬戸物の金魚まで製造され、高い値段で売られているとか。(昭和20年4月24日の日記より

折しも日本は統制経済下。玩具業界にあっては、昭和13(1938)年、国内向けブリキ玩具の製造が禁止され、17(1942)年には金属製玩具一切の製造がかなわなくなっていました。玩具の素材は近代以前の土や木や竹、紙、練物(おが屑をノリで練った素材)製へと回帰していたので、瀬戸物(陶磁製)の金魚が再登場したのでしょう。昭和19年晩秋ころから米軍の本土空襲が始まり、高見順が金魚の迷信を書いた昭和20年4月24日までには、熊本、京都、宇治山田(伊勢)、浜松、大垣、東京、名古屋、大阪、神戸、呉(軍港)、沖縄、立川、川崎…と、軍施設や軍需工場がある町々のみならず、様々な性質の町々が繰り返しB-29による爆撃を受け続けており、当時の人々は、備えを固めていたとしても、いつ、どこに爆弾が投下されるか、生きていられるかどうか、それは運に頼るのみというような心境であったこともよく伺えます。
高見順が記した陶磁製の金魚というのは、画像のようなものだったでしょうか。


この日記以降、終戦の8月15日までに、主だったものだけを列挙するのですが、5月—徳山、また浜松、横浜、6月—奈良、熱田、日立、千葉、土浦、鹿児島、四日市、浜松、八幡(北九州)、豊橋、福岡、静岡、姫路、水島、各務原、津、佐世保、下関、岡山、延岡、7月—熊本、呉(市街)、下関、姫路、徳島、高松、横手、甲府、岐阜、千葉、明石、和歌山、仙台、岐阜、宇都宮、敦賀、一宮、釜石《艦砲射撃》、函館と北海道、室蘭《艦砲射撃》、多治見、小樽、平塚、沼津、桑名、日立《艦砲射撃》、大分、銚子、福井、岡崎、日立、呉(軍港)、津、大津、大垣、半田、保土島(大分)、松山、大牟田、大山口(列車/鳥取)、一宮、呉(軍港)、青森、宇治山田、大垣、那賀川(鉄橋)、鎌倉、8月—富山、長岡、水戸、八王子、前橋、佐賀、今治、広島《原爆》、豊川、福山、八幡(北九州)、大湊(青森)、長崎《原爆》、花巻、鳥栖(佐賀)、加治木(鹿児島)、久留米、大月(山梨)、長野、土崎(秋田)、伊勢崎、熊谷、小田原・・・・と、これでもか、これでもか!と空襲が続いていたのです……。―――小さな赤い陶磁製の金魚にすら、生命の守りを求めた私たちの近い祖先たちの悲痛を想い、胸が苦しくなってきます。

———それはともかく、明治・大正時代に愛された❝瀬戸ノベルティ❞の浮き金魚は、新たなデザインのもと、瀬戸では令和時代の子どもたちにも親しまれています。

(学芸員・尾崎織女)