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学芸室から 2020.02.07

御殿飾りの世界へ

全国各地雪が見られない暖かすぎる冬に、少々怖さも感じながらも立春を迎え、このまま春に向かうのかと思いましたが、昨日からぐっと冷え込み、香寺町も今冬初めて雪がちらつきました。

さて、6号館は春をよぶ、雛まつりの世界へと替わりました。今年のテーマは町雛と御殿飾り。幕末から昭和中期の御殿飾り17組を、時代を追って一堂にご紹介しています。

 
桃の節句に雛飾りが楽しまれるようになったのは江戸時代のこと。初めのころは 毛氈の上に屏風を立て回し、紙雛や内裏雛を並べた“ 屏風飾り ”や“ 親王飾り ”と呼ばれるものが一般的でした。この様式は現代でもよく見られるのではないでしょうか。平成初期に祖母がプレゼントしてくれたわたしの雛人形も、マンションでも飾れるようにと、内裏雛のみの親王飾りの様式です。 現代の住まいや暮らしの変化にも合っているのかもしれませんね。
 さて江戸時代後期には 次第に、添え人形や道具が増え、江戸を中心に「段飾り」が発展する一方、上方では「御殿飾り」が優勢でした。

御殿飾りは、建物の中に内裏雛を置き、側仕えの官女、庭掃除や煮炊きの役目を果たす仕丁(三人上戸)、警護にあたる随身(左大臣・右大臣)などの人形を添え飾るものです。御殿があることで、人形の役割もよくわかり、飾りの中にも遊びの要素が加わります。 また、京都の人たちが御殿を御所の紫宸殿(ししんでん)に見立てたところから、桜・橘の二樹も登場してきます。

御殿飾りが作り始められたころには、屋根はなかったようです。その形態は「源氏物語絵巻」で用いられる“吹き抜き屋台”という構図とも似ていたことから、「源氏枠」と呼ばれるようになります。屋根がないことで光が入り、 内裏雛の表情もわかりやすいですね。

明治時代の源氏枠飾り(掃除をさぼり気味の仕丁3レンジャーも必見です)

明治、大正時代には、職人が腕をふるった屋根付きの豪華な御殿飾りも作られるようになります。人形師がプロデュースし、細部にまでこだわった 豪快さと繊細さを併せ持った檜皮葺御殿飾りはぜひ一度当館でご覧いただきたいなと思います。

大正11年大木平蔵(丸平)製の檜皮葺御殿飾り


大正末から昭和時代初期にかけて、御殿飾りは京阪地域の都市部を中心にさらに広がりをみせ、コンパクトに収納できる一式も作られるようになり、百貨店を中心に頒布され、⼈口の集中した都市の住宅で歓迎されます。
戦中戦後の物資不足と社会の混乱によって、雛⼈形製作は⼀時中断するものの、復興が果たされる頃には、関⻄から西日本一帯にかけてきらびやかな御殿飾りが流⾏し始めます。明治・⼤正時代の豪華さとは質が異なり、金具で派手に装飾された賑やかな御殿には、暮らしの豊かさへの庶⺠の夢が込められているようです。これらの多くは、静岡や名古屋など、中部東海地⽅方で製作されたものです。京阪の御殿とはまた異なる美意識が興味深いです。

鯱が乗る東海地方の御殿飾り


御殿飾りは明治・大正時代を通じて京阪神間で人気があり、戦後には広く西日本一帯で流行しましたが、昭和30年代中頃には百貨店や人形店などが頒布する一式揃えの段飾り雛に押されて姿を消していきました。


西室では、幕末から明治時代に、江戸・京都・大阪で飾られた雛人形をご紹介しています。 

当初の展示計画では、高さ約1.5m、幅6mほどもある六曲一双大和絵屏風の前に江戸の古今雛、と京阪の古今雛を並べ、また、幕末の享保雛の背後に、江戸の段飾りで桃の節句を楽しむ様子を描いた国貞の浮世絵『源氏十二ヶ月乃内弥生』を設置し、 京阪と江戸の様式や美意識の違いをご覧いただこうと思っていました。ただ、実際展示してみると、しっくりこず。。やはり豪華で雅な大和絵の前には、、京阪で作られた大型の享保雛が、 江戸の古今雛の表情には国貞の浮世絵が似合う!ということで、大きな屏風の前には京阪の町雛がずらりと時代ごとに並びました。やはり地域色ということなのでしょうか。色使いや表情でしょうか。不思議です。
「雛まつり~御殿飾りの世界~」へどうぞお越しくださいませ。

(学芸員・原田悠里)

 

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