デジタルコレクション「戦前の琉球玩具」 | 日本玩具博物館

日本玩具博物館 - Japan Toy Musuem -

Language
JTM50thRYUKYU

展示・イベント案内

exhibition
JTM50thRYUKYU
企画展

日本玩具博物館 開館50周年記念 デジタルコレクション「戦前の琉球玩具」

会期
2024年7月10日(水)
会場
日本玩具博物館ホームページ 企画展

当館は、2022年度より2年にわたり、文化庁のInnovate MUSEUM事業の採択を受け、この事業の眼目のひとつである博物館資料のデジタルアーカイブ化に取り組んできました。現在、内部資料として8,000件の登録が済んでいますが、これからもコレクショングループごとにアーカイブ化を進めていこうとしています。こちらのページでは、登録を済ませたデジタルコレクションの中からテーマごとに数件ずつを選んで、公開していく予定です。
7月は「戦前の琉球(沖縄)玩具」をご紹介いたします。


戦前の琉球玩具コレクションについて

昭和20(1945)年、太平洋戦争の戦場となり、連合国軍と日本軍の兵士、民間の人々を合わせて、20万人もの尊い生命が失われた沖縄戦(=ウチナーいくさ)によって、沖縄が伝えてきた琉球の生活文化もまた激烈な打撃を受けたため、沖縄県内には戦前の琉球玩具はほとんど遺されていません。当館は、井上重義館長の玩具収集仲間でもあった田中明氏のご遺族から寄贈を受けた戦前の琉球玩具20件に加え、大正時代から昭和時代初期にかけての郷土玩具研究家であり、小児科の医師であった尾崎清次氏のコレクションを受け継いでいるため、総数約80件の琉球玩具を所蔵しています。

<尾崎清次氏のこと>
1893(明治26)年、愛知県に生まれた尾崎清次は、1917(大正6)年、京都府立医学専門学校(現京都府立医科大学)卒業後、京都帝国大学(現京都大学)医学部小児科教室に、1921(大正10)年には、兵庫県神戸市の児童相談所に技師として勤務します。その翌年、新婚の妻とともに和歌山を訪れた際、祠に供えられていた「桃持ち瓦猿(和歌山市の郷土玩具)」の素朴な美しさに打たれ、また玩具が民間信仰と深いかかわりをもっていることに目を開かれて、郷土玩具への関心を深めます。
医師としての本業にまい進するかたわら、1923(大正12)年には「婢子会(ほうこかい)」の同人となって、同好の士とともに郷土玩具の研究にも取り組み始めます。1924~26(大正13~15)年にかけて、『日本土俗玩具集』(全五編)を刊行し、1929(昭和4)年、笠原道夫博士(1883~1952)が笠原小児保健研究所を開設すると、同所の研究員を務め、『育児上の縁起に関する玩具図譜』(全三巻/1929~31年)を上梓しました。また同年に朝鮮、1932(昭和7)年には当地、沖縄を訪問し、その成果を『朝鮮玩具図譜』(1934年)、『琉球玩具図譜』(1936年)に発表しています。当館は、この『琉球玩具図譜』を所蔵し、遺族から寄贈を受けた尾崎清次コレクションの中には、図譜の題材となった玩具が十数件含まれています。


戦前の沖縄では、子どもの節句を祝う旧暦五月四日の行事「ユッカヌヒー」の前後数日にわたって、各地に盛大な玩具市が立ちました。市には、爬龍(ハー リー)船競技に登場する船を真似た玩具、起き上がり小法師(ウッチリクブサー)や動物の張り子玩具などをぎっしり並べた露店がひしめき、子どもたちにとっては夢のような世界でした。そうした玩具のほとんどは魔除け、厄除けなどの意味を持ち、子どもの健やかな成長を願うものでした。

このページでは、そのような「戦前の琉球玩具」のデジタルコレクションの中から、尾崎清次氏が収集した22点を選んで公開いたします。特に、張り子玩具は、全体的に落ち着いた印象を持ちつつも、細部の彩色には黄や紫、紅色などの琉球固有の色使いが魅力的。人形の衣装には琉球伝統の染色技法「紅型」を想わせる色付けや琉球の絣文様が浮き立ち、髪型や装飾品、また持ち物などにも細やかな作り込みがなされています。

下記をクリックしてご覧ください