ブログ
blog播州の祭り屋台のこと
■当館が所在する播州地方では10月初旬から月末にかけて各地で秋祭りが開催され、太鼓の音が響きます。祭りには氏子たちが町内毎に、太鼓と太鼓を叩く乗り子を乗せた「屋台」と呼ばれる太鼓台を担ぎ出し、太鼓の音と掛け声にあわせて大勢で練り歩きます。その代表的な祭りが去る14・15日(雨のため本宮は16日に順延)に開催された松原八幡神社の「灘のけんか祭り」です。今年も数万人の見物客でにぎわいました。この21・22日にも姫路市網干区の魚吹八幡神社で「網干提灯祭り」があります。21日夕刻に氏子に担がれた1千本余の提灯が神社に集まり光の行列が夜遅くまで続き、翌22日は早朝から10数台の屋台がでて賑わい、この祭りで播州路の屋台の出る祭りは幕を閉じます。
■太鼓台は江戸末期に大阪で誕生し、海運を通じて広く瀬戸内沿岸に広がりました。屋根に布団5枚を積む形が基本で播州地方の中でも明石市周辺は布団屋根ですが、姫路市周辺の祭りに出る屋台(太鼓台)は神輿型の屋根に豪華な金具が飾られた独特の形をしています。ところがこの神輿型の太鼓台が布団型からいつ頃にこの様な形になり、それがどのようにして発展したのかは不明でした。私は山陽電鉄に在職の頃、同社が発行する月刊PR誌「山陽ニュース」の編集を退職する1984年までの14年間、一人で担当していました。20頁程の冊子でしたが毎号、沿線の文化人や歴史、文化財を取り上げ、私鉄の発刊するPR誌の中では文化色の強い異色の存在でした。当然、沿線で開催される秋祭りにも光を当てたいと屋台の研究家を探したのですが当時は誰も居られず、加古川市在住の玉岡松一郎先生と共に調査し、先生に同誌1972年10月号に「屋台」として発表いただきましたが、なぜ神輿屋根になったのか、どこが発祥地であるかは解明できませんでした。
■ただ聞き書きや文献資料などでわかったことは、幕末頃に描かれた松原八幡宮祭礼絵巻に神輿太鼓の名で飾り金具も少ない神輿屋根の太鼓台が描かれ、姫路市飾磨の恵美酒神社や的形の湊神社の祭礼の記録に神輿太鼓の名はあっても屋台の名は無く、屋台と呼ばれるようになったのは明治以降と考えられました。さらに40年前に屋台の飾り金具職人の川村さんから「質素な神輿太鼓が現在のように豪華な飾り金具や伊達縄で飾られるは明治27年(1894)の日清戦争と同37年(1994)の日露戦争後で、経済力の高まりと戦勝気分に乗って各町が競い合うように豪華な屋台を造り現在のような姿になった」と聞かされていました。
■インターネットで調べるとその後、屋台に関心を持つ方が現れて播州祭礼研究室が開設され、平成11年にHP「播州祭り見聞記」がアップされています。播州各地の屋台などの現状や明治時代の屋台の姿が紹介され大変参考になりました。
■播州路の屋台のことは、<ブログ「館長室から」2010年9月25日>でも「日本の祭りを総覧できる楽しい展示」として瀬戸内各地に残る太鼓台の玩具とともに説明しています。現在1号館で開催中の「ふるさとの玩具・古今東西」にも兵庫県淡路の布団太鼓、姫路の屋台、香川の布団太鼓、長崎の布団太鼓の玩具を展示しています。いずれも廃絶し現地でも見ることができない資料ですが、玩具の太鼓台は過去の歴史が推測できる貴重な資料であることに気付かれると思うのです。
(館長・井上重義)
バックナンバー
年度別のブログ一覧をご覧いただけます。